序曲「アコーディオンの思い出」
その老人は夜露のなかで弾き騙る。
聴衆は猫。機また、群青の空に群がる星々か。
重厚でいて、どこか滑稽なアコースティックの音彩に乗せて騙り紡ぐは、ある人の、一人の男の噺。
十日と一時間二十分を延々と、その命尽きる瞬きまで繰り返す男の物語。
◇
ときに、一刻と一刻との境を私の目はまだ触れた経験がない。
一瞬にも満たず、一生涯よりも密の細やかな一時、それが狭間の刻。
魔術師は無意識の内にこの狭間の刻を代価として、魔術の行使を許されているのだと、ある魔術師は説いたという。
正か否か、その答えを知り得る者は今のところ居らず、誰もがその正答を求め究める。
魔術師とは、そういう輩のことを指す言葉だ。
十二の頃の夏の晩、私は初めて魔術を目の当たりにした。
決して綺麗な思い出ではないけれど、脳髄の奥深くにまでその時のことが刻み込まれている。
当時は魔術と魔法の違いなんて考えたこともないし、勿論、見分けなんてつくはずもなかった。
ただ直感で、それが魔術の類であるのだと理解した。
夏祭りに向かうからと、母から譲ってもらった下がりの白い浴衣は真っ赤に染まり、下腹部から浸透してくる異物感に伴う不愉快さで、思考までもが鮮血に彩られた。
瞳の先で薄ら笑う男の歪んだ像に吐き気を模様して首を捻じった先では、眼底まで眼が窪んで見える母の抜け殻が、穢れを植えられている私を見て微笑んでいる気がした。
嗚呼、お母さんは当てにならない。
それから父を求めたけれど、あの人はもっと当てにならない人間だったことを思い出して、私は閉眼した。
男の呼気が荒んで来るのを感じると、次に熱を感じ取った。
心は凍えているのに、体の芯は熱い。
感じたことのない想いに身を震わせた際に悟った。
これが――魔術なのだ、と。
籠の鳥を哀れに思ったことなんてなかった。
決められた時間に餌を与えられ、部屋も知らぬ間に綺麗に片付けられる。
唯一の不満は不自由なことだけ。
贅沢な悩みだと、そう思っていた。
人も鳥も、真の自由なんて得られるものではないのに。
俗的に言われる自由とは、縛られるべき秩序があっての無秩序である。法があり、無法が成立するように。
常に相対的である自由とは、仮初めなのに。
誰もがそれを真の自由だという。
故に間違ってるのは、私以外の全てだ。
監禁されている暗がりの中で、私はそう思うことにした。
陽を忘れた身体でも、曖昧な時間感覚だけは残っていた。
夜になれば男が私を貪り、深くなれば解放される。
朝になれば男が口移しで食事を与えてくれる。
手足が縛られているため排泄は寝転んだまま。
後で男が掃除をし、私の体も綺麗にしてくれる。
まさに私は、籠の鳥だ。
男と交わる娯楽はある。
睡眠も必要以上に得られる。
食事も与えれる。
衛生面も飼い主の男がしっかりと管理してくれる。
不満は唯一、贅沢な悩みだけ。
歪みきっていた自覚は在れど、最低限では満たされていた。そんな時間だった。
あれは多分、夜のこと。
いつものように男に愛でられている最中のことだった。
耳から入り心を逆撫でしてくる男の声に混じり、重くもどこか軽やかな、そんな間の抜けた演奏が聞こえてきた。
立派なピアノではなく、古いオルガンが奏で出す音に近しい音彩だ。
私に打ち付けていた腰を止めた男は当然、何事か、と私から身を離して狼狽えていた。
スイッチを入れた音が聞こえた直後、部屋を照らす電灯に私が夜目を眩ませていると、シワがれた男の声が目の代わりに導いてくれた。
「自ら罪を重ねるなんて、お前さんは贅沢者だな」
それが私と魔法使いとの出会いだった。