Moonlight garden
はじめましての方も、そうでない方も、お立ち寄りいただきありがとうございます。
少しでもお楽しみいただければ幸いです。
自身のブログにて掲載のものに加筆、修正を行っております。
青白い月が輝いていた。
音もなく降り注いだ光は、小さな湖とその周りを囲む深い森を照らし出す。さざなみ、下生え、重なる梢を、影が生まれるほど強く。
静かだった。
まるで、たゆたう水面が境界を越え、辺りを飲み込んでしまったかのように。
水辺には小さな丸テーブルが置かれ、真っ白なしわのないテーブルクロスがかけられていた。テーブルの上には飾り気のないガラスの花瓶が置かれ、鈴蘭の花が可憐に咲いている。
テーブルの両側には一対の椅子。その片方に、深く腰を掛ける一人の青年の姿があった。時の流れに褪せたようなくすんだ色の髪。無理矢理縦に引き伸ばしたような頼りない体を包むのは、きちんと採寸され、仕立てられたスーツ。すっきりとした顔立ちに真っ白な肌。眠っているのか、きつく閉じられた眼。そこに漂うどことなく冷たい雰囲気。
青年の左手は無造作にテーブルに乗せられていた。その開かれた手元には丸いガラス片のような、磨かれた氷の欠片のような、あるいは透き通る石のようななにかが転がっていた。その欠片の中心で、淡い光が強まったり弱まったりを繰り返している。静かに、息づくように。
水面をさざなみが走り、微かな風がテーブルクロスと木々の葉を揺らして過ぎた。
月明かりの下で、青年がゆっくりと顔を上げる。その視線の先。向かいの椅子に、いつの間にか人影が座っていた。
それはしわくちゃの顔に穏やかな笑みを浮かべた老婆で。彼女は足元に生えたクローバーの葉や、重い色合いの木々の幹や、天に浮かぶぽってりとした月の様子なんかを順に見て、最後に青年にその満ち足りた表情を向けた。
青年もつられたように静かに微笑む。先ほどまでの冷たい雰囲気が無くなる。テーブルに飾られた鈴蘭の花が、心なしか、温かい色合いに変わった。
「おかえり。ずっと、待っていたよ」
深みのある低い声で青年は言い、老婆は戸惑ったように、わたしを、と問い返した。
「どんな人生だった?」
スーツ姿の青年はテーブルに身を乗り出して、老婆の顔をのぞき込む。
「とても。とても、幸せな人生だったわ」
老婆は戸惑いがちにそう答え、青年はまるで初めからその言葉を知っていたかのように、ただ静かに頷いた。
「かわいい孫がいたね。娘さんは、最後まで君のことを愛していた」
「あら、曾孫の顔も見たのよ。とてもいい子だった」
青年は幸せそうに語る老婆の様子をとても柔らかな笑顔で見ていた。
「お腹がすいただろう。スープを飲んだらいい」
ふと、思い出したように青年が言う。テーブルの上にはいつの間にか温かい湯気を立てる茶色いスープ皿が二つ。老婆は嬉しそうに礼を言うと、銀のスプーンを静かに口に運んだ。青年もゆっくりとそれに倣う。
「苦労ばかりだったね。大変じゃなかったかい?」
青年の声に、向かいの席の人影が顔を上げる。青年を見つめ返したその顔は、いつの間にか働き盛りの女性の笑い顔に変わっていた。
「それはもう、びっくりするくらいいろいろあったのよ。子供を育てて、家を守って。平穏なばかりじゃなかったわ」
「それでも君は、いつも笑顔でいたね」
「そうよ。笑顔が私の取り柄だったもの」
彼女の力強い言葉に青年は、どこか誇らしい表情を浮かべて頷いた。
「若い頃は、野心家だったじゃないか。自分で店を開くんだ、なんて言って」
青年の言葉に、向かいの席から弾んだような笑い声が続く。声を上げたのは、若い娘だった。
「いつか、友だちと洋品店を開くつもりだったの。結局、叶わなかったけど」
「努力は無駄じゃなかっただろう?」
「もちろんよ。自分の店は持てなかったけど、働くのは楽しかったわ」
彼女はとても満足そうに呟いた。
「小さい頃はおてんばだったね。いつも楽しそうだった」
「だって。男の子ばっかりが木登りをしても良いなんて、不公平よ」
そう言って頬を膨らませたのは、まだ幼い少女だった。物怖じしない、活発そうな目が青年に向けられる。
「君が怪我をしたときは、本当にどうしようかと思ったんだよ。頼むから、次はやめておいてほしいな」
青年の声に少女はいたずらっぽい笑顔を浮かべ、約束はできないわ、と言って見せた。青年は困ったように笑い、スーツの袖を少しまくって腕時計を見た。それから、名残惜しそうな表情で席を立つ。
「あぁ。本当はもっと君と話したいんだけど。もう、時間みたいだ」
彼はテーブルの上に置いてあった光の欠片を手に取って、少女の足元に膝をつき、視線を合わせた。
「また、こうして君と会えるのはいつになるんだろうな」
元気でいるんだよ、という青年の言葉を合図に、梢がざわめいた。強い風が少女の背中を強引に押して、どこかへ連れ去ろうとする。少女は戸惑ったように流されるままに歩き始めたが、不意にその足を止めた。
よろめきながら振り向いたのは、年頃の少女の今にも泣き出しそうな顔。
「あのね。わたし、多分あなたに言いたかったことがあるの」
風の流れは強さを増して、その声さえも遠くへ押しやっていく。それでも、言葉は確かに青年に届いた。
ありがとう、と。ありふれた響きで。
風が止んだ水辺には、ただ、一人の青年と鈴蘭の花がだけ残されていた。
とある一人の人と、それを護ってた存在のおはなしです。
ひとつを終えて、また次の人生が始まる前に少しだけ話をした、といった感じの。
ちょっと切ないけどどことなくあったかいっていう雰囲気を出してみたくて。
そして失敗した、というわけです。
ちなみに鈴蘭の花言葉は「幸福が帰る」です。
青年にとって彼女は「幸福」だった、みたいな意味合いで。
何はともあれお付き合いいただき、ありがとうございました。