産みの苦しみ
うーん、困った。『北斗』三月号の原稿提出期限があと三日後に迫っているというのに、まだ白紙状態なのだ。
穴は空けたくない。『北斗』平成二十年十二月号で「地下鉄の中で」を発表して以来、ここまで一号も欠かさずに書いてきた。その編集後記で竹中忍氏が紹介して下さっている。
「今号から山中幸盛が同人として作品を発表して行くとのこと。ショート・ショートが本分らしいが、そんなに自分を枠にはめる必要はないので、ロング・ロングだろうとワイド・ワイドだろうと、何でも挑戦して行ってもらいたい」と。
先月号で四十一ページの『おーい、海』を発表してやっと竹中氏の御期待に少しお応えできた形だが、それでも『老人性健忘症』をオマケにつけて、ショート・ショートは途切れさせなかった。「本分」どころか「天分かもしれない」との自信が最近芽生えてきているのだからなおさらのことだ。
ところで、『児童虐待担当必殺仕事人』シリーズは二遍で止めにする。思わず義憤に駆られて書いてしまったが、児童虐待という深刻な問題を茶化してはならないと猛省したからだ。案の定、十二月の例会で駒瀬銑吾同人から「姿が見えない、などという荒唐無稽な設定はよした方がよい」とのアドバイスをいただいたことだし。
そして今、ひねり出そうとしているのだが、うーん、何も出てこない。困った、困った、困ったぞ。と、ふと「レアアース」というテーマが思い浮かんだ。
それこそ五十年も前ならば一円の値打ちもないただの土塊が、世界の政治経済を揺るがすほどの大鉱脈に変貌したことから展開し、どこにもあるありきたりの食材の中に、ある病気を治してしまう成分が含まれていることにする。たとえばアルツハイマーを飛躍的に改善させるXという物質が、賞味期限が過ぎたコンビニ弁当から偶然発見される、というオチなんかどうだろう?
が、しかし、なぜか体が動かない。資料を調べる気力が出てこない。あかん、このままでは中断してしまう。そこで同人の棚橋鏡代さんに電話してみた。棚橋さんは言った。
「大作を発表したあとの、後遺症だね」
なるほど、これまでの経験でも、小説現代やオール読物、小説すばる等の新人賞に応募した時などホッとして、次の作品に取り組むまでにかなりの時間を要したからだ。
おなじく同人の大西亮さんにも電話してみると。
「一種のスランプですな。焦ってもしかたないから、気分転換に旅行にでも行かれたらよろし。それともカプセルをお貸ししましょか?」
だけどまだあきらめ切れていないから、のんびり温泉につかったりカプセルにこもる気にはなれないのですよ。そこで何らかのヒントが得られるかもしれないと、これまで発表してきたショート・ショートを引っ張り出してみた。
「地下鉄の中で」「恩知らず」「倍返し」「負けず嫌い」「これぞ実力」「絶句」「せつない話」「せつない話2」「せつない話3」「せつない話4」「疑惑・せつない話5」「スパゲティ」「エコキャップ運動」「ゲーテ全集」「出る杭は打たれる」「逃がした魚」「出世払い」「絶滅危惧ⅠA類『ハリヨ』」「反面教師」「児童虐待担当必殺仕事人」「児童虐待担当必殺仕事人2」「老人性健忘症」の合計二十二遍で、魚釣りに関するものと家族・日常ネタが目立っている。
魚釣りかあ、と考えた時、肉食魚ライギョとの感動的な出来事を思い出した。幸盛が中学生の時に釣りザオをかついで近所の水田用水に行ってみると、体長が二、三センチほどのライギョの稚魚が大群を成して泳いでいるのに遭遇した。幸盛は本能的にタモですくいたくなって急いで家からバケツとタモを持ち出し、タモでその群れをすくおうとした。と、その時、突然巨大なライギョが水上に躍り出て、タモの柄を握っていた幸盛の右手に噛みついてきたのだ。
ギョギョギョッ、驚いたのなんの。手の甲にはライギョの歯形が幾筋もついて、そのほとんどから血がにじみ出ている。しかし、幸盛は怒るどころか心の底から感動した。スゲー、自分の子供を守るためにそこまでするか!
この体験は実話だけに説得力がある。読者はその母性愛に感動し、きょうびの人間世界の親子関係などに思いを馳せてくれるだろう。「児童虐待担当必殺仕事人」なんかよりずっと共感が得られるにちがいない。
しかし、いつもなら「よし、これで行こう!」と思い立てばすぐさまパソコンに向かうのに、今回は体も頭の中も、どんより垂れ込めた真冬の黒雲のように、重い。
最後に同人の尾関忠雄さんに電話してみた。百戦錬磨の大先輩は、最後の手段があるじゃないか、と前置きし、一生に一度しか使えない『禁じ手』を伝授してくれた。
「書けない、書けない、と苦悶するところを、書けば?」
* 文芸同人誌「北斗」第575号(平成23年3月号)に掲載
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/