送り犬
「山で犬がついてきたら、転んだらあかんよ」
祖母は、その話が好きだった。
「立ち止まったり、振り返ったりもしたらあかん。おんなじ速さで、落ち着いて、歩いて帰るんやよ」
「なんか、あかんあかんばっかりやなあ」
そう返すといつも祖母は笑った。
「山のもんには山のもんの、決まりごとがあるんやろなあ」
そして決まってこう続ける。
「ええか、千春ちゃん。もし、山で送り犬に出会うたら、ちゃんと言うことを聞くんやよ。そないしたら、おばあちゃんのじいちゃんが送ってもろたみたいに、犬は帰りまで守ってくれはるからな」
◇
祖母の笑い方は、もう思い出の中にしかない。
三回忌の法要が終わった。読経を終えたお坊さんを見送ったあとも、家の中はまだ落ち着かなかった。
仏間には座布団がいくつも重なり、台所からは湯呑みの触れ合う音がして、大人たちの声が廊下まで満ちている。
祖母の思い出話はいつのまにか、親戚たちの近況報告に変わっていた。
千春は、仏壇の前に置かれた写真をちらりと見た。写真に映る年配の女性は、少しすました顔をしている。
千春の知っている祖母は、おしゃべりで、目尻に皺を寄せてよく笑うような人だった。
年の近い従姉妹たちは、皆スマホに目を落としている。とりあえずで付けられているテレビも、観る気にはならなかった。
会食まで、まだ時間がある。
外の空気を吸いたくなった。
千春は、台所にいた母に「少し歩いてくる」とだけ告げた。母は、並んだ湯飲みにお茶を淹れながら「気をつけてね。暗くなる前に帰るんやよ」と言った。
祖母の家の裏手には、山際へ続く細い道がある。
昔は、ここが妙に怖かった。
けれど今見ると、畑へ出るための、踏み固められた土道でしかない。
風に擦れる葉の音を聞きながら、日が傾きかけたその道を行く。
角を曲がると、祖母がよく手入れをしていた畑の跡が見えた。草は伸び放題で、もうあの頃の名残はない。
畑の脇には、大きな岩がある。踝ぐらいの高さの、平らな岩だ。そこは、幼い頃の千春の特等席だった。
あそこに座って、よく祖母の畑仕事を見ていた。
祖母は、屈みながら、動き回りながら、千春が退屈しないよう、いろんな話をしてくれた。
そのなかでも、祖母が何度も話してくれたのが『送り犬』だった。
『おばあちゃんのじいちゃんも犬に送られて帰ってきたんやよ』
祖母はいつも、少し得意そうにそう言った。
気付けば岩に視線を向けたまま、足が止まっていた。
──戻ろう。
踵を返した、その一歩目で、靴先がなにか硬いものを掠めた。
「……あれ」
見下ろすと、足元に木の根が張り出している。
──こんな道だったっけ。
千春は顔を上げ、あたりを見回した。
いつの間にか、薄暗くなっている。
さっきまで背にしていたはずの祖母の家の瓦屋根が見当たらない。
おかしい、と思って視線を巡らせる。今度はあの畑がない。あの岩も、どこにもない。
あるのは、黒い木々と、湿った土の匂いだけだった。
スマホを取り出す。画面はついた。しかし。
「圏外? なんで……?」
母に連絡しようとした指が止まる。
かわりに地図アプリを開いてみたが、現在地はいつまで待っても表示されなかった。
前後左右、どこを見ても覚えのない景色だった。視線を空へ逃がす。
月が出ていた。
まだ夕方前のはずなのに、不自然なほど明るく、低く、白い月。
それが──三つ、空に浮かんでいた。
どれもが細く欠けていて、木々の上に横一列で並んでいる。
「……え」
喉の奥がすうっと冷えた。
『夜の山は怖いで、絶対に近付いたらあかん。奥のほうには、ナンジもおるんやからね』
ふいに、祖母の声を思い出す。
難しい事と書いて、ナンジ。
祖母はそう教えてくれた。山の奥にいて、人を惑わせるものなのだという。
妖怪か、お化けみたいなものなのだと思って聞いていた。古い昔話の──子どもに山へ入るなと教えるための、教訓の一種として。
──なんでよりによって今、それを思い出すのか。
そう思って思わず一歩下がったとき、背後で、落ち葉が沈む音がした。
一度ではなかった。
た、たん。た、たん。
地面を踏む音が続く。
重い音ではない。
人間のそれとも違う。
千春は息を止めた。
獣だ、と思った。
ナンジの話は吹き飛ぶ。現実的な恐怖のほうが輪郭を持った。
猪か、鹿か。熊だったらどうしよう。
いずれにしても、背後にそれがいる。そう思うだけで、身がすくんだ。
なるべくゆっくりと、首だけを後ろへ向ける。
暗がりの奥に、金色の目が二つあった。
視線がぶつかる。
姿ははっきりと見えない。月明かりが黒い毛並みの輪郭だけを細くなぞっていた。
──犬?
けれど、その目は、千春の腰よりも少し高い位置にあった。
「おまえ、道を外れたな」
低く、くぐもった声が響く。
千春は声のしたほうを探した。けれど、それらしい人影は見えない。
そうしているうちに、犬が歩み寄る。
「どこを見ている」
声は、目線より下──落ち葉を踏んで近づいてきた獣のほうから聞こえていた。
千春は、喉を動かした。
「犬が、喋ってる……?」
「おまえたちは、吠えれば逃げるだろう」
『ええか、千春ちゃん。もし、山で送り犬に出会うたら──』
祖母の声が頭の底で蘇る。
「……送り犬?」
「そう呼ぶ者もいる」
『ちゃんと言うことを聞くんやよ。そないしたら、帰りまで守ってくれはるからな』
「家まで送ってくれるの?」
「そうだ。送る」
「……ありがとう。助かる」
言い終えてから、千春はようやく自分の膝が震えているのを知った。
怖い。
けれど、ひとりではない。知らない山の中で、家まで送ってくれるものがいる。それだけで、どうにか足を動かせそうだった。
でも、確か、送り犬は──
「礼を言われる覚えはない」
脅すでも、怖がらせるでもなく、犬は淡々と続けた。
「転べば食う」
──そうだ。 送り犬は、ただ人を守ってくれるものではない。
千春は足元を見た。
木の根が、湿った土から太く盛り上がっている。濡れた落ち葉がその上に積もり、足元が良いとは決していえない。
──でも、転ばないだけなら。きっと、気をつければ。
「……転ばなかったら、帰れるんだよね?」
「そうだ」
犬は、迷いなくそう答えた。
千春は息を吸ってから、言った。
「わかった。……あ、私は千春。よろしくね」
一拍、沈黙が落ちた。
「ちはる」
犬は、聞き慣れないものを嗅ぐように、そう繰り返した。
「それはなんだ」
「名前だよ。私の名前」
「なぜ、それを教える」
「え? お世話になるから、かな」
返事はなかった。
ひとまず歩き出そうとして、すぐに足が止まる。
「えっと……どっちに進めばいい?」
「月の下へ向かえ」
「月って……三つあるんやけど」
金色の目が、夜空へ向いた。
「真ん中だ。あの下に、道の切れ目がある。そこまで行けば、帰れる」
そうは言うものの、犬は前には出なかった。
「……先導してはくれないの」
「それはできない」
短い返事を受け、足を踏み出す。数歩進んだところで、千春は口を開いた。
「あの」
「なんだ」
「名前は、なんていうの」
木々の枝が揺れ、かすかに鳴った。
「ない」
「ないの?」
「呼ばれたことがない」
「じゃあ、なんて呼べばいい? 『送り犬』って呼ぶのは長いし」
「呼んでどうする」
千春は足元を見たまま、濡れた落ち葉に足を取られないように一歩進んだ。
「必要なときとか、呼びたいときに、呼ぶんやと思うけど……」
送り犬は黙っていた。返事はないが、軽い足音は半歩分後ろから規則正しくついてくる。
向かう方向には、木立のあいだを抜ける細い一本道が続いていた。
右も左も同じような暗がりで、振り返っても、今来た道さえ、もう見分けがつかなかった。
心細さを振り払うように、千春は口を開く。
「ねぇ。ここは、どこなの。どうして、月が三つもあるの」
「前を向け。話している暇はない」
「でも──」
「おい、そこは踏むな」
突然、声が鋭くなる。千春は出しかけた足を反射的に止めた。
「右に寄れ。そこは足が沈む」
言われたとおりに右へ寄る。今まさに踏もうとしていた場所に、水を含んだ土がぬらりと光っていた。
知らずに踏んでいたら、足を滑らせていたかもしれない。
「……ありがとう」
言ってから、千春はすぐに口を押さえた。
「礼を言うなと言った」
「そうだった、ごめん」
「謝るな」
「それもあかんの?」
「前を向いて歩け」
千春は、少しだけ笑ってしまった。
ふ、と息が漏れて、肩が小さく震える。
笑っている場合ではない。
どこか得体のしれない場所にいて、足元は暗く、月はおかしく、背後には転べば自分を食べる犬がいる。
それでも、礼も謝罪も律儀に止めてくる送り犬がおかしくて、張りつめていたものが少しだけゆるんだ。
「笑ってごめん」
そう言うと、半歩後ろの気配が、わずかに遅れた。
怒ったのか、呆れたのか、それとも何も思っていないのか。振り返ってみても、その目からは何も読めなかった。
千春は前を向き直った。話していたほうが、気が紛れる気がした。
「おばあちゃんが、よく送り犬の話をしてくれた。おばあちゃんのおじいちゃんも、送ってもらったことがあるんやって」
息を吸って、すぐに続ける。
「送り犬は、決まりごとを守るって聞いてる。だから、私が転ばなければ、無事に送ってくれるんやよね」
犬は答えなかった。
「それにね──」
ぱき、と木の枝を踏んだ音が響く。
「おばあちゃんからとっておきのことを聞いてるから、私、大丈夫な気がする」
『ええな、千春ちゃん。犬は賢いから、言葉のほうに合わせてくれる。もし転んでしもたときは──』
その先を思い出しかけたときだった。
「足を上げろ」
背後から声がした。
千春は慌てて足元を見る。
けれど、声が届いたときには、もう遅かった。
踏み出した足のつま先が、落ち葉の下に隠れていた木の根に引っかかった。
「あっ」
足だけが止まり、身体だけが前へ行く。
視界がぐらりと傾き、白い三つの月が滲んだ。
──転ぶ!
千春は反射的に手を伸ばした。掴めるものは何もない。
もう片方の足でどうにか踏ん張る。
靴底が濡れた落ち葉を滑り、片膝が地面すれすれまで落ちた。
転んでは、いない。
転んでない。
胸の中で何度もそう繰り返しながら、千春は大きく息を吐いた。
遅れて、背後の音に気づく。
かち、と、何か硬いものが鳴った。
音の方を振り向く。暗がりの中で、炯々と光る金色の双眸が、じっとこちらを見ていた。
「……危なかったな」
送り犬がそう言うまでに、ほんの少しだけ間があった。その声は、低く、静かで、足元を示すときと変わらない声だった。
けれど、それを追いかけるように、かち、かち、とまた硬い音が鳴った。
「……今の、なに」
送り犬は答えなかった。
「歯?」
かち、と、もう一度だけ音がした。
「前を向け」
送り犬は、なにごともなかったかのように続ける。
「まだ足元が悪い」
千春は前を向いた。けれど歩き出してからも、さっきの音が耳の奥から消えなかった。
◇
歩くうちに、足元の悪さが少しずつ薄れていった。
土の上を這う木の根が減り、濡れた落ち葉もまばらになる。かわりに、白いものが木々のあいだから流れ込んできた。
霧だ。
はじめは足首のあたりをひやりと撫でるだけだったそれが、いつのまにか膝の高さまで満ちている。
道は平らになった。足元だけなら、さっきより歩きやすいはずだった。
けれど、千春は、かえって歩きにくくなった気がした。
霧のせいだけではない、目印になるようなものがないのだ。
道なりに、同じ木が続いている。
進めば、何度も同じ曲がり角が現れる。
同じくらいの幅の道が、霧の奥へ伸びている。
どれだけ歩いても、進んでいる感じがしない道だった。
ふと、空を見上げる。
月が、二つになっていた。
「……月、減ってる」
千春は思わず呟いた。
三つ並んでいたはずの白い月が、ひとつ消えている。
残った二つは、さっきより低いところに浮かんでいた。木の枝にかかりそうなほど低く、細く欠けたまま、こちらを見下ろしている。
「歩け」
送り犬が言った。
「ここでは、足を止めるな」
「え? 転ぶな、じゃなかったの」
「それだけではなくなった」
「止まったら、どうなるの? ……食べる?」
「転べば食べる。止まれば、おまえが戻れなくなる」
「戻れなくなる?」
「そうだ」
千春は眉を寄せた。
「……あかんこと、増えるんやね」
「おまえが帰るための決まりだ」
「おまえじゃなくて、千春」
軽く抗議の声を上げてみる。
犬はしばらく黙っていた。互いの足音だけが続く。
「名を呼ぶ必要はない」
ようやく返ってきた声は、やっぱり淡々としていた。
「必要とかじゃなくて、私の名前なんやってば」
歩き続ける。
霧の中は、どこかに水があるような匂いがした。沢の音はしないのに、湿った空気だけが肌にまとわりつく。
道の左手に、ぽう、と淡い明かりが浮かんだ。
千春は息を呑んだ。
提灯のようにも見えた。
家の窓明かりのようにも見えた。
あたたかそうな、やわらかい明かりだった。
それが木の幹のあいだに、火の玉のように揺れていた。
風もないのに、ゆらゆらと形を変えている。近づいたように見えた次の瞬間には、霧の奥へと少し遠ざかる。
綺麗だと思った。
視線がついそちらへ向いてしまう。
その明かりの下に──白いものが見えた。
人の手だった。いやに滑らかな、作り物のような質感の手。
肘から先だけが、霧の中に浮いている。指がゆるく曲がり、こちらを招くように、ゆっくりと動いていた。
「送り犬……あれは、なに」
「ナンジだ」
千春は、喉の奥が乾くのを感じた。
「あれが、ナンジ?」
「構う必要はない」
「こっちに来る?」
「あちらからおまえに触れることはできない」
「じゃあ、大丈夫なの?」
「おまえがあの手に触れれば、連れていかれる」
千春は、白い手から目を逸らした。
あちらからは触れてこない。
でも、こちらから触れれば、連れていかれる。
襲ってこられても、もちろん困る。でも、ああして手招いて、こちらから触れるのを待っている、というのにも、ぞっとした。
立ち止まれば帰れない、というのはそういうことか、と遅れて理解する。
あれに魅せられてはいけないのだ。
明かりを、どんなに綺麗だと思っても。
霧の奥で、その明かりがもうひとつ増えた。
それから、またひとつ。
ぽう、ぽう、と、道の左右にゆらめいて並ぶ。
どれも遠すぎず、近すぎない。それが、歩くたび少しずつ位置を変えて、視界に入り込んでくる。
「見るな」
「そうしてるつもりなんだけど……目に入っちゃう」
「前だけ見ていろ」
前。
言われて、千春は無理に視線を戻した。
道の先は、二つに分かれていた。
右の道は、暗かった。
覆いかぶさるような木々が並び、霧も濃い。
足元には黒い泥が溜まっているようにも見えた。
左の道には、明かりがあった。
黄色く、やわらかい明かり──おばあちゃんの家の台所に似てる。そう思った時だった。
湯呑みが触れ合う音がした。
畳と、線香の煙の匂いがした。
見知った親戚たちの気配がある気までしてくる。
「右だ」
送り犬がそう告げるが、千春は足を止めかけた。
「でも、左に明かりが」
「右だ」
「おばあちゃんの家みたいに見える」
「見るな」
そのときだった。
「千春ちゃあん」
霧の奥から、声がした。
千春の胸が、きゅっと狭くなる。
祖母の声だった。
写真の中の、すました顔ではない。
畑で土を払いながら、千春を呼んでいた頃の声だった。語尾が少し伸びて、やわらかくて、聞くだけで肩の力が抜けるような声。
「千春ちゃん、こっちやよ」
「おばあちゃん……?」
口から、声が漏れた。分かれ道で、足が完全に止まる。
「止まるな」
背後から、送り犬の声が飛ぶ。
それでも、左の道に目が釘付けになった。
明かりの下に、誰かの影が立っている。
はっきりとは見えない。けれど、腰を少し曲げた立ち方に、見覚えがあった。
「千春ちゃん、柿をむいたからおいでぇ」
足が、一歩、左へ出る。
「おい、だめだ」
犬の声が鋭くなる。
けれど、それはどこか薄い膜越しのように聞こえた。
眼前の霧の中から、白い手がゆっくりと伸びてくる。
もう一歩足を踏み出したときだった。
静寂を切り裂くような鋭い咆哮が、背後から耳に突き刺さった。
千春の身体が咄嗟に跳ねる。
犬の吠え声だった。
その声に、明かりがぐらりと揺らいだ。
祖母の声が途切れる。
けれど、すぐにまた、霧の向こうで笑う気配がした。
「千春ちゃああん」
呼び方が、少しだけ伸びすぎていた。
──ちがう。おばあちゃんじゃない。
こちらに伸びている白い手が、上向きに掌を開いた。
『おまえが触れれば、連れていかれる』そう言った犬の声が蘇る。
──そうだ。あれに触ってはいけない。
ぞわぞわとした嫌悪が身を這う。
触れてはいけない。わかっている。
なのに、足がまた一歩、前へ出た。
どうしても、白い手から目が離せなかった。
「おい」
自分の手がいつのまにか持ち上がっていることに、千春は気づかなかった。
「おい!」
白い指が、千春の指先を待っている。
触れるまで、あとほんの少し──
犬の爪が、土を削る音がした。
背後の気配が、ふいに濃くなる。
「ちはる!」
低い声が、霧の中のどの明かりよりも近くで鳴った。
──はじめて、名前を呼ばれた。
千春の手が止まる。
白い手の指が、自分の指先とほんの少しの隙間を開けて、空を掻いていた。
目の前のその光景を、千春はようやくはっきりと理解した。
慌てて、身体ごと手を引く。呼吸が浅くなり、肩が上下した。
なにに対してかわからないまま、思わず首を振る。
暗闇の明かりは、変わらず綺麗だと思えた。
祖母の家の気配も、まだそこにあるように感じられる。
でも。
千春は後ろを振り向いた。
暗がりに浮かぶ金色と目が合った。犬を呼ぶ。
「送り犬……」
そうしてやっと、落ち着く気がした。
硬い喉に唾を追いやる。
目を閉じて、一度、深呼吸をした。
「千春ちゃあん」
まだその声は聞こえた。
けれどもう、祖母のものだとは思わなかった。
「行くぞ。右の道だ」
犬の声に従う。
覚束ない足取りで、それでもどうにか歩みを進めた。
まだあの歯の音も、耳の奥に残っている。
転んでもいけない。
息を詰めて、慎重に歩く。
走らない。
止まらない。
通り過ぎてからも、ナンジの手や声は千春に向かって伸びてきた。
自分を惑わせようとしているのだとわかっていながら、はらはらとして落ち着かなかった。
耳を覆いたくなったとき、背後の犬が、少しだけ横へずれた。千春の真後ろではなく、霧と千春のあいだに割り込むようにして歩き始めたらしい。
ときおり、犬の低い唸りが足元を這った。
そのたび、霧の奥では、明かりが細く震えていた。
送り犬が、近づけないようにしてくれているのだとわかった。
右の道へ入ると、霧は急に濃くなった。
ナンジの明かりもなく、ただ薄暗い。
背後で、犬の足音が続く。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
千春は一歩、一歩前へ踏み出す自分の足を見下ろしながら、さきほどのことを思い出していた。
今になって、なぜあんなふうに惑わされたのかと思う。自分がなにをしようとしていたのか、考えるだけで胸が冷えた。
「……もし、ナンジに触ってたらどうなってたの」
ようやく声が出た。
「連れていかれる」
「ナンジに?」
「そうだ」
「連れていかれたら……食べられるの?」
「ナンジは人を食べない」
スニーカーが湿った音を立てる。泥は見た目ほどに深くない。けれど、踏むたびに靴底に嫌な感触が伝わった。
「じゃあ、連れていって、なにをするの」
「あれは、人の心を欲しがる」
「心を?」
聞き返しながら、犬のほうを振り向く。
その向こうで、さっきの明かりが遠く揺れた気がした。千春は慌てて顔を背け、また前を見た。
「欲しがって、どうするの」
「わからない」
「送り犬も知らないの?」
「理解ができない」
送り犬の声には、迷いも嫌悪もなかった。ただ、本当にわからないものをわからないと言っているだけの声だった。
しばらく進むと、霧が薄くなり始めた。
木々の影もまばらになり、足元の泥も砂に変わっていった。
空を見上げる。
二つの月は、千春の目線の高さにあった。
さっき見たときよりも、低くなっている。
「月が落ちる前に行かなければならない」
送り犬が言った。
「落ちたら帰れないの?」
「そうだ、道が閉じる」
月をもう一度見る。
残りどれほどで落ちるのかはわからない。けれど、はじめて見たときより、低くなっていたのは確かだ。
──急がないといけない。
霧の名残が、足元をゆっくり流れていく。
「……送り犬。さっき、助けてくれてありがとう」
「礼を言うなと言った」
「そうだけど……名前、呼んでもらえて助かった」
続く足音が、少し遅れた。
「……呼ぶ必要が、あったな」
「うん。呼んでくれなかったら、どうなってたかわからない」
それだけ言って、千春は黙った。
少しだけ、胸の奥が変なふうに痛かった。
怖かったからか、危なかったからか、それとも犬に名前を呼ばれたからか。自分でもはっきりとはしなかった。
◇
道の先が、白く明るくなっていた。
夜明けではない。月明かりとも違う。霧が晴れた向こうに、砂のような白い地面が広がっていた。
「ここから先は、振り返るな」
送り犬が言った。千春は振り返りかけて、すぐに思い直した。問いだけを投げる。
「また、決まりごと?」
「そうだ」
振り返らない──それは、今までで一番難しいことのように思えた。
そう思ったそばから、背中がひどく心細い。千春は唇を引き結んだ。
ここに来るまで、千春は金色の目がついてきていることを何度も確かめていた。暗がりの奥に、黒い毛並みの輪郭が見えるのも。
今度は、それができなくなる。
「……わかった。でも、話しててもいい?」
「なぜ」
「黙ってると、怖くなって振り返りたくなるから」
「……それで歩けるなら、そうしろ」
「えっと……送り犬は、ひとり──じゃなくて、一匹だけなの」
「そうだ」
「あのね、おばあちゃんのおじいちゃんも、送り犬に送ってもらったって聞いてて……覚えてたりする?」
「一人一人を覚えてはいない」
「そっかぁ……その人ね、転んだんやって。でも、送り犬が見逃してくれたんやって聞いてる。だからうちでは、送り犬は怖いもんじゃないって、そう伝わってるんだよ」
祖母の声が、耳の奥で笑う。
『犬は賢いから、言葉のほうに合わせてくれる。もし転んでしもたときは、「疲れたから、腰掛けただけや」って言うんやよ』
『おばあちゃんのじいちゃんは、そう言うて見逃してもろたんやからね』
「……あの男か」
ややあって、低い声が言った。
言葉は続く。
「声をかけただけで、なにもないところで腰を抜かし──転んでいない、腰掛けただけだと泣いて縋った男」
「うん?」
「あれは、あまりに見苦しくて、食う気が失せただけだ」
千春は言葉を失った。
とっておきの抜け道だと思っていたものが、手からこぼれ落ちる。
「え? じゃあ、たまたま? 決まりごとの、穴とかではないの」
「そんなものはない。転んだら、食う。そうでなければ送る。それだけだ」
聞いていた話と違う。
伝えられてきたものなんて、そんなものかとは思いつつも、千春は息を吐いた。
送り犬は、転べば食べる。
けれど。
ナンジから引き戻してくれたのはこの犬だった。
正しい帰り道を示し、注意を払って送ってくれる。
怖いと言えば、今みたいに会話にも付き合ってくれる。
送り犬が千春を帰そうとしているのも、きっと本当なのだと思った。
「怖くなったか」
黙っていると、犬が淡々とした声音で訊ねた。
「怖いよ」
千春は正直に言った。
「でも、信じられる」
言うと、自分のなかでも、その信頼がしっかりと輪郭を持った感じがした。
気を取り直して前を向く。眼前に広がるのは、白い砂礫地だった。
細かな砂と小石ばかりの地面が、月明かりを受けてぼうっと光っている。
木も、草も、岩もない。
さっきまで足元にまとわりついていた霧も、いつのまにか晴れていた。
明るい。
目が眩むほど、明るかった。
「また全然さっきと雰囲気の違うところだね」
「ここは足場が崩れやすい、気をつけろ」
送り犬がそう言ったそばから、踏み込んだ場所が小石を散らして崩れた。一歩踏み出すたびに、靴底がざり、ざり、と音を立てる。
「あっ、月が」
空に浮かぶ月が、ひとつになっているのに気付く。
細く欠けたままの白い月が、低いところに浮かび、白い砂の上に薄い影を落としていた。
「あんなに落ちちゃってる……」
「急いだほうがいい」
送り犬が言った。
「だが、走るな」
「わかってる」
転んではいけない。送り犬に食べられる。
立ち止まるのも、今は間に合わなくなるからだめだ。
振り返るのもいけない。これは、新しい決まりごと。
ひとつずつ意識を強める。
前を見て、走らない。振り返らない。
小石を踏まない。足を取られない。
白い砂礫地は馬の背のようになだらかな丘になっていた。その上に、二本の木杭が立っている。
「ねぇ、送り犬。あそこ、なんか、ある」
返事を待つより先に、その間に何かが渡されているのがわかった。
「……綱、みたいなやつがある」
古びた太い綱が、二本の杭のあいだに低く張られていた。ところどころに白い紙のようなものが結ばれていて、風もないのに、かすかに揺れている。
「あれをくぐれ」
送り犬は続ける。
「くぐれば、帰れる」
──帰れる。
その言葉を聞いた途端、胸の奥が熱くなった。
あと少し。
あと少しで、帰れる。
綱までほんの数百メートルだ。
そう思って、傾斜に足を掛けた瞬間、身体がずしんと重くなった。
気を抜いたつもりはない。
ただ、ここまで歩き通して、千春はとっくに疲れていた。足首に力が入らなかった。
──ただでさえ、足場が沈んで歩きづらいのに。
白い砂礫は照り返しもひどい。少し頭もふらふらとしてきていた。
「ちはる」
背後で声がした。
振り返りそうになって、必死にこらえる。
「一歩一歩でいい」
「うん」
「足を上げろ」
「うん」
返す声が震えた。
自分で思っていたより、余裕がなかった。
右足が、小石を踏んだ。
ほんの小さな石だった。
けれど、靴底の下で、それが転がった。
右足首が嫌な角度に傾く。
つんのめった体勢を立て直そうとした左足も、砂に取られた。
声も出ないまま、白い地面が迫った。
──だめだ。
背後であの音がした。
かち、かち。
千春の膝が、とうとう砂についた。
身体が地面の上を滑る。
──もう、だめだ。
細かな砂が、掌と膝をざらりと擦った。
熱にも似た痛みが走る。
それは、誤魔化しようのない現実の痛みだった。
──転んだ。
そう思った瞬間、首の後ろが熱く湿る。
送り犬の息がかかっていた。
近い。
さっきまで半歩後ろにいたはずのものが、すぐそこにいる。ぐるる、と低い音がその喉から鳴っていた。
千春は地面に転んだ姿勢のまま、動けなかった。
振り返ってはいけない。
けれど、振り返らなくてもわかる。
送り犬が、自分を食べる位置にいる。
歯の音が、もう一度鳴った。
今度は、かち、という小さな音ではなかった。噛みしめるような、ぎりぎりとした音だった。
千春の喉は、うまく動かない。背中が、じわりと冷えた。
「ちはる」
湿った、低い声が耳朶を打った。
「……腰を、掛けただけ、だな」
歯の鳴る音は続いていた。耳のすぐ裏側で、送り犬は音を立てて唾を飲み下す。
それでも犬は、言葉を選ぶように続けた。
「転んではいない。そうだな?」
それは、確認というより、言い聞かせる口調だった。
千春にか、送り犬自身にか。そこまではわからない。
けれど、そういうことにするしかなかった。
「うん」
声が掠れた。
「転んでないよ。これは座っただけ」
獣の荒い息が、首筋と耳を撫でる。
自分の汗なのか、犬の呼気なのか、首筋がじっとりと濡れていた。
それでも、送り犬は千春を食べなかった。
「……立てるか」
少しの間を置いて、そう言われた。
千春は頷き、手を地面につける。
でも。
「……すぐには、無理かも」
足が震えていた。膝に力が入らない。
立たなければいけない。
月が落ちる前に、綱をくぐらなければいけない。
わかっているのに、身体が言うことを聞かなかった。
千春は唇を噛んだ。
ここに長く座っていたら、いけない。
座っただけだと言い張るにも、限界がある。
送り犬がどれだけそう言ってくれても、自分が動けなければ、きっと──
「ちはる。字は」
ふいに、送り犬が言った。
その声が、さっきよりわずかに遠くなっていた。
距離を取ったのだ。食べないように。そう思っただけで、胸の奥がぎゅっとなった。
「字って?」
「名前の字は、どう書くんだ」
千春は、すぐには答えられなかった。
それが、千春が座っていてもいい理由を作るための言葉だと気づくのに、少し時間がかかった。
弱って座り込んでいるのではない。送り犬に、名前の字を教えているだけだ──そういうことに、してくれようとしているのだと。
千春は、震える指を砂の上に置いた。
指先で線を引くと、砂はすぐに崩れかける。
千春はゆっくりと、深く指を沈めて字を書いた。
千。
春。
「千春」
自分の名前を、声に出す。
「千は、たくさん。春は……春」
指先についた砂を見ながら、千春は続ける。
「千回くらい春を迎えられるように。長生きできるように、って。そういう意味なんやって」
送り犬は黙っていた。
砂に書いた字が、月明かりの中で淡く浮いている。風もないのに、細かな砂が少しずつ線を崩していく。
「おばあちゃんが、言ってた」
千春は小さく笑った。
「いい名前やろ、って」
「……千春」
送り犬が、低く繰り返した。
「うん」
「長く、生きるように」
「うん」
歯の音は、もう聞こえなかった。
千春は手をついた。膝に力を入れる。
「立つね」
誰に断るでもなく、そう言った。足はまだ震えていたが、どうにか立てそうだった。
「行かなきゃ」
ろくに砂を払うこともせず、ゆっくり立ち上がる。
擦れた膝がひりひりとして痛かった。
手のひらにも顔にも、砂が張り付いてざらついた。
それでも、顔を上げる。
綱は、もう目の前だ。
「もうちょっとやから、がんばる」
ひとりごとのように呟き、歩き出す。
そうして、少し進んでからだった。
「……以前送った、あの男は息災か」
送り犬がそう問うた。
「え?」
「腰を抜かした男だ。おまえは、あれの子孫なのだろう」
「ああ……ひいひいおじいちゃんのこと?」
千春はさっきの話を思い返しながら、少し困った。
「会ったことないよ。私が生まれる前に亡くなってる」
「なくなる?」
送り犬の声は、本当に意味がわからないようだった。
「百年以上前の話やもん。人間は、そんなに長く生きられない」
「千回の春を願うのにか」
千春は言葉に詰まった。
「……それは、あくまで願いやから……」
送り犬はそれきり黙っていた。
足音だけが、後ろからついてくる。
「送り犬は、長生きなの」
「数えたことがない。……おまえたちに比べれば、そうなんだろう」
「じゃあ、それこそ千回の春も迎えられるんだね」
綱はすぐそこだった。
白い紙片が揺れている。
あと十歩。
背後の犬は黙っていた。
月が、綱の真上にかかっている。
「送り犬?」
返事がない。
あと八歩。
もう帰れる、その期待と安堵に、わずかなさみしさが滲む。
千春は、犬の低い声がもう少しだけ聞きたくなった。
「送り犬。もう少しだけ話したい」
「……なんだ」
やっと返ってきた声は小さかった。
「ここを出たら、もう送り犬には会えないの?」
「……望んで迷い込める場所ではない」
「そっか……そうだよね。さみしいな」
傾斜に足をかけ、身体を持ち上げるようにしてまた一歩進む。
あと六歩。
「さみしいとは、なんだ」
「また会えたらいいのにって思うことかな」
「……理解ができない」
「ナンジが心を欲しがるのに、ちょっとだけ似てるかもね」
そう言うと、背後の足音が聞こえなくなった。
砂に音を吸われているのか、それとも綱までもうわずかなのを見て、送り犬が止まったのかはわからなかった。
「最後だから、言わせてね。ここまでありがとう」
あと四歩。綱はもう目の前だ。
送り犬の声がぽつりと落ちる。
「……今ほど、なにかを惜しいと思ったことはない」
「さっき、食べ損ねたこと?」
「違う」
そこから言葉は続かなかった。
ざっ、と尾で砂を払うような音を鳴らしたあと、送り犬は言った。
「だが、おまえを帰す。はやく行け」
千春は意味をつかみきらないまま頷いた。
一歩、また一歩と身体を前へ動かす。
木の杭に手をつき、綱の向こうを覗き込む。
揺れる白い紙片が頬を掠めた。
向こう側には、煌々と光る夕日が見える。
茜色に染まる、見慣れた景色も。
草が伸び放題な畑。
その脇にある平たい岩。
祖母の家の瓦屋根。
「綱をくぐれ」
「うん」
千春は振り返らずに、「送り犬」ともう一度だけ呼んだ。別れの言葉を続けたかった。
しかし、道中ずっと聞いてきた低い声が、それを阻むように、「千春」と先に名を呼んだ。
「千はたくさん、春は春、だな」
さっき教えたことをなぞるように送り犬は言った。
「うん。そう、そうだよ。それが私の名前。送り犬も、この先、千回の春を迎えられるように、長生きしてね」
少しだけ顔を横に向ける。振り向ききらないまま笑って、そう伝えた。
千春は屈み、白い綱をくぐった。足の下で、砂が土に変わる。
「千回、春が来ても──」
綱を隔てて低い声が落ちた。
「おまえは、もう来ないのだな」
最後に、その声だけが耳に触れた。
顔を上げて、振り向いたときにはもう、金色の目はそこになかった。
白い砂礫地も、二本の杭も、低い綱もない。
おかしな月も、もう空に浮かんではいなかった。
千春は、祖母の家の裏手の道に立っていた。
踏み固められた土道に、夕日が木の陰を長く伸ばしている。
まだ、気持ちがうまく切り替わらない。
だって、手のひらには、白い砂が少しだけ残っていた。指先には、自分の名前を書いた感触が。
耳には──送り犬のあの低い声が。
「千春ー?」
祖母の家のほうから、母の呼ぶ声がした。
「お母さん!」
「どこにおったの。ご飯、もう準備できたよ」
窓から身を乗り出すようにしていた母は、千春の服装を見て目を丸くした。
「え、どうしたんその格好。転んだの」
「うん。でも、いま、帰ったよ」
祖母の家のほうへ歩き出す。もう背後からあの足音はついてこなかった。
やわらかな風が、山のほうから吹いた。
千春は手についたままの砂を、そっと握りしめた。
◇
それからも犬は、道を外れた人間を送った。
山には幾度も春が来た。
沢の氷がゆるみ、湿った土の匂いが変わるころになると、犬はふと耳を立てる。
春がどこから来るのかも知らないまま、首を巡らせ、一人の女の足音を探した。
長い年月のなかで、先に薄れたのが声だったのか、後ろ姿だったのかは定かではない。
ただ、犬は今もときおり呟く。
「千は、たくさん。春は、春」
その名前だけは、いつまでもいつまでも覚えていた。




