第8話 少し寒い朝
遠くに合奏練習の音を聞きながら、柔らかいシーツに頬を擦り付ける。
目覚めの枕元にはいつも通りシトラスのアロマが添えられて、ぼやけた頭にすっと爽やかな香りが入って来る。
抱いていた人形を押しつぶしながら体を起こせば、うんざりするほど見慣れた部屋の風景がそこにはあった。
顔を洗って髪を整え、最低限人前に出られる服装に着替える。
いつもよりおざなりに準備を終えたら、日課の朝風呂に行くための荷物をまとめる。
バスケットに下着、今日の服、化粧道具を詰め込んで、お付きの妖精に持たせたら、ドアの前に立って耳を澄ませる。
少しだけ押し開いて辺りを眺めて、誰もいないことを確認したら、そそくさと浴場へと向かった。
なんで自分がこんなことをしなくてはならないのか、そう聞かれたら間髪入れずに自分のせいだと答えるしかない。
なんなら自分で進んでしているのだから、さっき鏡に映し見たような顔すらする必要はないのかもしれない。
でも、誰が悪いかと聞かれたなら、少し躊躇ってでもこう言うだろう。
『ママが、悪いんじゃん』
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「……で、アンタら誰よ」
「いや、こっちの台詞なんだけど……」
更衣室で、聖女ら三人と一人が対峙していた。
腕を組んでふんぞり返り、傍らに妖精を侍らせた強気そうな少女。
聖女と同じ白い髪に赤の差し色がより苛烈な印象を作っている。
「アンタ、アタシのこと知らないわけ?」
「知らないから言ってんの。モーラ、知ってる?」
「知らーん」
「……ああ、なるほど。噂の聖女サマご一考ってアンタらのことね。じゃあ、そこにいるおちびさんが……」
「お、おちびさん……?」
彼女はずかずかと聖女へ歩み寄ろうとし、慌ててケイシアが間に入る。
二人の視線が交差して、火花が散るかのような一瞬が過ぎた。
今にも殴り掛かりそうな剣幕の少女が、小さく呟いた。
「別に何もしないわよ。だからどいて」
「あたし、聖女様の護衛係なんだよね。そんな怖い顔してる間は近づけるわけにはいかないかな」
「……あっそ」
いくら相手が敵意を剥き出しにしているとはいえ、騎士として無暗に一般人に手出しはできない。
一、二発くらいは殴られることを覚悟していたケイシアだったが、興味を失って離れる姿に内心で安堵していた。
妖精からバスケットを取り上げて置き、少女は自分の服に手をかけた。
そこでしばらく固まって、鋭い視線だけを背後の聖女らに向ける。
「……いつまで突っ立ってんの。アタシこれからお風呂なんだけど」
「なら、ご一緒しませんか?私たちも魔女様に朝風呂を進められて……」
「出てって。早く。アタシの後なら好きにして」
「行こっか、聖女様。ケイも早く服着な」
「む~……」
三人の少女は、理不尽な要求にも関わらず早々に折れて浴場を後にする。
そして残ったのは一人きり。
優雅な朝風呂を勝ち取った少女はといえば、優越感に浸るでもなく、朝から歯の奥に巣食った虫の味になおさら顔をしかめていた。
「なんなのよ……ほんと……」
服を脱いでタオルを巻いた彼女は、湯煙の中へと消えていった。
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「ごめんなさいね……モニカちゃん、貴女達にまでそんなに当たるなんて……」
城の一角、談話室に集まった少女らは、魔女から痛切に謝罪を受けていた。
養子のモニカのことを話すタイミングが無かったこと、最近は仲違いのようになっていること、その八つ当たりを喰らったような状況について、彼女は深々と頭を下げた。
毛並みの良い犬が洗われた後のように萎んだ姿には、逆に謝られている方が罪悪感を感じてしまう。
「私たちは大丈夫です」
「魔女様が悪いわけじゃないから……結局何もなかったし」
「本当は昨日の夜紹介しようと思っていたの。本当にごめんなさい、こんな雰囲気にしたいわけじゃなかったのだけど……」
「こんなお母さんがいて、なんであんなのに育つかね……」
「ちょっと、モーラ!」
「いいのよケイシアちゃん。……みんな、少しだけ待っててちょうだいね」
かつてないほど強い語気で窘めるケイシアを、更に魔女が窘める。
その後すぐに彼女は胸に手を当て、大きく一度深呼吸した。
次の瞬間、彼女は大きく手を叩き、昨夜の晩餐会のような眩しい表情を取り戻す。
「はい!いったんこのお話はおしまい。朝ご飯にパンケーキを沢山焼いたから、一緒に行きましょ!」
「き、昨日あれだけ食べたのに……!?」
「大丈夫よモーラちゃん。食べた分は頑張って働けばいいの」
「働く……私たちになにか仕事があるのですか?」
「そうよ……このわたくしと一緒に、一日中遊ぶという仕事がね!」
「わーい!」
少女らを連れて魔女は談話室から食堂へ向かう。
彼女にとって、養子であるモニカは無論大切である。
しかし気難しい子供が示す拒絶に構う時間は、今の彼女には無い。
迎える客人は連邦が戴く唯一無二の存在。
それを家庭の事情で無下にしようものなら、魔女自身だけではなくラミアルス邦に住む全ての民の印象に泥を塗ることになる。
故に、彼女自身の感情とは別に優先順位は付けられなければならない。
だから魔女は、この三日間に限ってモニカに積極的に構うことをしないことに決めた。
一緒に来るならそれでよし。来ないのならば別行動。
一般的な判断に思えるそれも、優しい魔女にとっては文字通り心を切り分ける痛みに満ちた選択となった。
無論、そんな葛藤を表情に出すことはしない。
ホストとして、施政者として、夢を語る魔女として、子供に与えていいのは笑顔だけなのだから。
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モニカという少女は、特別性格の悪い人物ではない。
感情の制御が効かない自分に自己嫌悪を繰り返し、その結果態度が刺々しくなっていることが悪循環になっていることは否めないが、かの魔女に育てられただけの心優しさは備えている。
一人で静かに湯に浸かり、ゆっくり考えた結果、朝の八つ当たりを謝ろうと聖女らを探すことにしたのも自然なことであった。
城は広いが、部外者が出入りするとなると当たる場所はそう多くない。
客室に突撃するのは憚られるため、まずは食堂か談話室、近いのは談話室だろうか。
その読みは見事的中し、部屋から朝の少女らが出てくるところに遭遇することができた。
遠くから駆け寄りながら、モニカは考えてきた謝罪の言葉を反芻する。
「あの、今朝はごめんなさい───」
しかしその言葉が、彼女の口からきちんと発せられることは無かった。
少女らの背後、談話室の入り口から波打つ艶やかな髪の端が見えた瞬間、とっさに廊下の角に隠れてしまった。
聞こえてくるのは和気藹々とした話し声。
その中に、今一番会いたくない、フルートのようによく通る声が混ざっていた。
「……お母さま」
呼吸が上手くできず、胸を強くつかむ。
一番大好きで、ずっと一緒にいた彼女の母親、レディ・マジョラム。
その楽しそうな声が耳に入り込み、喉に深く絡みつく。
今この場に限っては、呼吸ができなくてよかったとすら思える。
音を殺して気配を消して、遠ざかる全てに気づかれないようにしなければ耐えられない。
見つかったらきっと、もっと酷い言葉を吐いてしまうから。
…
自分の心臓の音が収まって、ようやく外の音が聞こえるようになった。
既に廊下には誰もいない。この辺りを使用人が通ることも少ない。
モニカはふらふらと立ち上がって、足を軽く掃った。
妖精もふらふらとやって来て彼女の周りでゆっくりと円を描く。
心配しているのか、揶揄っているのか、言葉が通じない以上、解釈でしか彼らは測れない。
「……キッチンに、朝ご飯、もらいに行こうか」
伸ばした指先の上でくるりと回ったのを肯定と取り、少女は魔女らが歩いた方とは逆に歩き出した。




