第1話 出発
純白の海を針が泳ぐ。
勇ましくその切先を突き上げたかと思うと、柔らかく頭を反してまた潜り込む。
その尾には色とりどりの軌跡が続き、寄り、集まり、肉感的に立体を成していく。
動きに一切の迷いは無く、軌道に寸分の狂いも無い。
見るものを描くのではなく、思い描いたものが見えるように。
空想が現実へと落ちていく軌跡を、彼は芸術と呼んでいた。
針のように研ぎ澄まされた空間に、固い音が三度響く。
それに続いて、凍土に春を告げる風のような声が部屋の中に投げかけられた。
「教主様。入ってもよろしいですか」
「どうぞ」
端的な返しを受けて、艶良く磨き上げられた扉がゆっくりと押し開かれる。
入ってきたのは、白い髪、大きな丸い目、人離れした美しさと少女らしい幼けさを兼ね備えた少女。
清廉と優雅を両立した聖衣に身を包む姿に誰もが一つの称号を思い浮かべ、事実としてその位を与えられた稀有な存在。
聖女。教会における新たな象徴を担う彼女が、身を屈めて様子を伺うように部屋の中を覗き込んでいた。
照明、ベッド、作業机、収納スペースのみのシンプルな内装。
しかしその一つ一つは技術と技巧の粋を凝らした一品であり、要素の単純さとは裏腹に、複雑かつ荘厳な雰囲気を成す。
その中央にあるのは、これまた白に包まれた大きな体。
それがゆっくりと振り向き、シワの刻まれた厳格な顔が現れた。
座高だけで少女よりも大きい恵体、剣山に針を戻す手には包帯が巻かれ、何も知らない人からすると不気味にも見える。
その実態は神光教会の長、あらゆる分野の知識と技術に秀でた生き字引。
リリアル邦教導主長。もっぱら教主と呼ばれる男が、ゆっくりとその場に立ち上がった。
「そろそろ集合の時間とのことです」
「分かりました。参りましょう」
「何をされていたのですか?」
聖女は体を大きく傾け、教主の背後の机をのぞき込む。
卓上照明の上には剣山と縫い針、そして散乱した色とりどりの刺繍糸。
「これです」
「……わぁ」
彼が手に持っていたのは、刺繍枠にぴんと張られた柔らかい白布。
織り上げられた繊維の一本一本が小さくきらめく、手に入り得る中で最も質のいいハンカチだった。
その隅には、赤い糸を中心に立体感を持って編み込まれた二人の人型。
一つは波打つドレスの質感、透き通るような肌色が再現され、その指先からは色とりどりの糸が踊るように伸びている。
パーツの無い顔に、微笑みを宿し見てしまうような、優しく愛に満ちた女性の姿だった。
もう一つは小さな少女。白を基調としながらも下地に紛れていないのは色選びの妙である。
女性を見上げてはしゃいでいるような姿は、まさしく無邪気な印象を持っていた。
「……わぁ……わぁ!とっても、とっても素敵です!」
「はい。リハビリがてら、手土産にと思いまして。」
彼が曲げ伸ばしする太い指は先の戦いの傷が未だ完治せず、先端まで包帯が巻かれていた。
とても精緻な作業の可能な状態とは思えないが、実際、彼一人の手でこの刺繍は完成されている。
人によっては驚嘆を超えて空恐ろしさすら感じさせる、人離れした技量だった。
とはいえ、まだ幼い聖女にそのような裏事情まで加味できる思慮があるはずもなかった。
彼女は無邪気に、刺繍で描かれた女性の姿に目を輝かせる。
「これが……いえ、この方が、これから私たちがお会いする……」
「ええ。『南方の赤い魔女』。ラミアルス邦の統括を務める聖人です。今の名は……そう、レディ・マジョラム」
「……魔女で、マジョラム様なのですね?」
「同じ名前の香草が由来だそうです。意味そのものには、あまりこだわらない方なので……」
どこか呆れたような教主の言葉に、聖女もなんだか可笑しくなって笑みが漏れる。
彼は刺繍を施したハンカチを用意していた箱に手際よく梱包し、懐にしまう。
部屋のドアの前までやって来ると、聖女に向けて手を差し伸べた。
「参りましょうか」
「はい。……あら?」
「どうかいたしましたか」
「……私が迎えにきたはずだったのですが」
教主は扉を引き、聖女の手を引いて聖堂の廊下に出る。
乱れ一つなく整えられた廊下を悠然と通り、従者の待つ正門へとたどり着く。
二人がかりで門が厳かに開かれると、そこには数十名の騎士がぴしりと列を成す。
その奥には馬車が3台、その御者が同じように敬礼で待っていた。
「さあ、出発です」
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「魔女様の治める都市だからシティ・”マジョ”ラムなの?適当すぎない?」
「知らないわよ。っていうか静かにしなって……」
「構いませんよ。長い道のりですから。それに、私たちは友達ではありませんか」
「さっすが聖女様!懐が広い!」
「"深い"でしょ」
リリアル邦の中枢都市、ケファレオから、ラミアルス邦の中枢都市、シティ・マジョラムまで。
いくつか都市を経由して3日間、大掛かりな旅程を馬車団が行く。
その中の一つ、一番小さく一番豪華な馬車の客室をたった4人が占有している。
教主と聖女。そしてその護衛と、秘書。
従者として従うのは赤い髪と紫の髪が映え合う仲の良い幼馴染、ケイシアとモーラである。
「あんたは前回やらかしたのに、よく今回来れたわね」
「もしかしてケンカ売ってる?」
「色々考えあってのことだ。保険もかけてある」
「よく分かんないけどそういうこと!レッツ汚名挽回、名誉返上!」
「逆だ」
「あれ?」
ケイシアは聖女の護衛として今回の招待に参加している。
鮮やかな長い赤髪が快活な印象を与える彼女は、史上最年少にして数少ない女性騎士の一人。
常識破りの入団を果たしただけあってその実力は破格。
しかし、先日の『勇者事件』で聖女の護衛に失敗し、共に虜囚の辱めを受けていたこともある。
それでも今回も護衛に抜擢されたのは、教主の独断によるものだった。
「ともかく、今度は鍛え直してきたからね!獣人100人来たって負けないよ!」
「……死にかけて、暴走までしてたくせに」
「覚えてない!」
「なんじゃそりゃ……」
元気な彼女に隣でツッコミを入れる紫の髪の少女が、モーラ。
教会の一般的な事務服を見に纏い、馬車に揺れてベレーが落ちないように時折押さえている。
表向きは教主の秘書として同行している。
しかし、この場の全員が彼女の裏の顔を知っていた。
「あの、モーラさんはどうしてその恰好を?」
「普通に教会の制服だけど……なんかヘン?」
「いえ、あの時は……」
「あの黒いぴっちりスーツ着ないのかってもごごご」
「好きであんなの着てると思ってるのかこのやろう!」
「あ、あの喧嘩は……」
ケイシアと聖女が共に獣人に囚われた後、教主と共に救出にやってきたのがモーラだった。
正規の制服とは全く異なる、動きやすさに特化した黒づくめの服装は聖女の記憶にも新しい。
聖女がお礼をする間もなく姿を暗まし、その後、重傷の身で魔物迎撃に飛び出したケイシアを救出していたことを教主以外は誰も知らない。
「あたしらの裏の顔は教主様以外には内緒だし、普段は普通の教会の仕事やってるからこれでいいの」
「付け加えるなら、今回のモーラの同行はケイシア、お前の監視の意味合いもある」
「はー?あたしモーラなんかに負けませんけど!」
「あたしも別に勝ち負けとかじゃないし、はあ……」
「ともかく、お前たちの最大の役目は聖女様に危険が及ばないようにすることだ。それだけは忘れるな」
「教主様は?」
「自分の身くらいは自分で守れる」
そう言って彼は纏ったローブの中から自身の『片腕』を出して見せた。
一目見て、生身ではないと分かる硬いシルエット。
しかし動きは自然そのもので、そういう鎧なのかと疑いたくなるほど精巧に作られている。
対面の少女二人は、初めて見る義手に目を輝かせる。
しかし、隣で座る少女は、その異様な手を見て別の意味で目を大きく見開いた。
「あ、あの、教主様……」
「どうかされましたか、聖女様」
「その、指で……刺繍を?」
「はい。いいリハビリになりました」
「刺繍?」
「えっと、魔女様への贈り物で、ハンカチに……」
三人が同時に刺繍を施す場面を思い浮かべる。
たおやかな女性が、しなやかな指で針を持ち、糸を長く引くようなそんな光景を。
その後、変わらずそこにある、固く無骨な義手を間近で見る。
「……この腕で?」
「はい……」
「枠を押さえるだけなら棒でもなんでもできるだろう」
「なら……そう……なの?」
「あたしに聞かれても……」
彼の腕は、先日の『勇者事件』に際して失われた。
本当は他にも大きな傷をいくつも負っているが、冷たく厳格な顔つきから、そのような苦しみを伺うことはできない。
騎士団を差し置いて単身で人類最強を謳われることもあった彼の、想像より深刻な容態。
それを目の当たりにし、場の空気は重くなった。
「そーだよね……教主様いたらあたしたち居なくても聖女様余裕で守れるし……」
「考えてみれば、ケイよりもずっと重体だったよね。センセイ……」
「……先生?」
聞き慣れない呼称に、聖女の口から思わず木霊が飛び出した。
それに対してバツの悪そうに目を逸らすモーラの肩を、ケイシアはにやりと笑って抱き寄せた。
「モーラは滑舌が悪いから、『きょうしゅさま』って言えないんだ!ね~」
「うっさい!またベッド送りにしてやる!」
「そうなのですか?」
「本当はあまり良くないのですが、一向に改善しなかったので……。お前たち、社内で暴れるんじゃない」
取っ組み合いを鶴の一声で制した後、教主は目を閉じて体重を背もたれに預けた。
そのまま動かなくなったのを見て、少女らも思い思いに旅路の暇を埋め始める。
外を眺めて思いを馳せるもの。
持ってきた本の栞を開くもの。
持て余した時間を同様に睡眠で浪費しようと試みるもの。
三者三様の静寂が、静かに流れていく。
車輪が小石を1つ跳ね飛ばし、残る2両もそれに続く。
通りがかる茂みの中で獣は耳を立て、鳥は飛ぶことも無くその様子を見ている。
なんと言うことのない日常は、轍と共にあっという間に過ぎ去っていった。




