プロローグ 初対面
───彼女と出会ったのは、偶発的なものだった。
その人がこちらにやって来ていたのは知っていたが、手続きや案内で忙しいので、顔を合わせるのは数日後になるだろうという話だった。
だからその日はいつも通りに過ごし、その時期に面倒を見ていた草花に水をやっていた。
そして、その瞬間のことはもちろんよく覚えていた。
「あら、こんにちは。小さな庭師さん♪」
音符の跳ねる様子が見えるような明るく澄んで上機嫌な声。
幼い、という第一印象に反して背はすらりと高く、恋路に疎い自分でも胸が高鳴るほど美しい女性だった。
元気に育った若葉に手を伸ばしながら優雅に歩み寄ってくる姿には、女王らしい威厳もある。
その時は我ながら、よく平静を保って無礼の無いよう努められたと今でも思う。
「はじめまして。わたくしは……えーっと、なんだったかしら」
彼女は自身の本名を忘れたわけではない。
文字通り過ごす世界が違っていたから、こちらの世界に合わせた言葉にまだ馴染んでいなかっただけなのだ。
だからその時、私は歩み寄って発言した。
「はじめまして、|いだいなる■■のじょおう《■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■》よ」
「……あら。その名前は確か、人間の喉では発音できないんじゃなかったかしら?」
「いえ。練習して、あとは舌を二回ほど強く噛む覚悟があれば」
「あらあらあら!よく見たら血が出ているわ。ちょっとよく見せて……」
彼女の整った顔が間近に迫り、ふんわりと鼻先に甘く爽やかな香りが触れる。
冷たく柔らかな指に任せて口を開け、目は閉じて、喉で彼女の声を聴いていた。
やがて彼女は小さく何かを呟くと、口の中にある痛みがぷるんとした違和感に替わり、頬を這う冷たさが離れていく。
目を開け口を閉じると、問題なく話せるようになっていた。
「どうかしら♪人の身体構造についてはちゃんと予習してきたのよ」
「そうですね。味蕾が無い以外は完璧だと思います」
「……あら」
彼女が使ったのは、魔法。
思い描いたイメージの通りに現実を彩る非物理的な俗人技巧。
魔術とは違って基本的に何でもできる。才能さえあればだが。
「ゼリーで練習したのが良くなかったのかしら……」
「まあ、いくらでも治しようはあるので。ふむ……」
その時私は確か、育てていた香草の若芽を詰んで差し出したはずだ。
彼女は人間の体を作ってから日が浅い。
だから味覚についてもよく知らないだろうと、確かそう考えていた。
「どうぞ。口に含んで、歯で磨り潰して、飲み込んでみてください」
「いいの?せっかく育てていたのに」
「食用なのでご心配なく。むしろ、貴女の方が嫌がるかと」
「そんなことないわよ。植物って、ある意味食べられるために産まれてくるものでしょう?」
子供っぽく笑った彼女は、私の差し出した若芽を食べてくれた。
頬が動くごとに閉じた目の裏が光を強めるようで、美人は食事風景すら様になるのだと思い知らされた。
「……うん!とってもいい香りだけど、君はこういう味が好きなの?」
「肉に添えて香りを楽しむもので、味はそこまで重視されません。苦すぎて口の中が痺れるなどなければいいのですが」
「それは問題ないけど……うん、そうよね。お肉、食べるのよね。今夜……」
肉、という単語に反応して彼女の目が泳ぐ。
予定ではその日の夜に歓迎の晩餐会があり、そこで山羊一頭を使うフルコースが振舞われる。
先生も同席するそこで、彼女は確か文字通り初めての食事を行うはずだった。
その時の私は、そんな知っていたはずの事実を失念していた。
「……すみません。色々と差し出がましいことを」
「ああ、ううん!いいのよいいのよ!何も食べるななんて言われてないし、お肉を食べることにもええっと……キヒカン?は無いから」
「そうなのですか。いわゆる自然と共に生きてきたと聞いていますが……」
「オオカミもネズミもタカも肉を食べるし、食べられる側だって文句も言わないわ。ちゃんと文化も調べてきたし」
「例えば?」
「食事の前にはいただきます、って手を合わせるのよね♪」
「ああ……はい、そうですね」
これは間違いなく先生の影響だった。
食事に際しての礼法は色々とあるが、食物そのものに感謝をささげるやり方は、当時あまり多数派ではない。
それに私としても、死んだ生物に対して、手を下したわけでもない人物が、届かぬだろう祈りを捧げる行為の意味が理解できていなかった。
「ねえ、もっと色々見せてくれない?まだここまで時間があるのよ」
胸元に付けていた時計を外して、視野のピントの内側まで押し付けられた光景がよみがえる。
古風な装飾の文字盤に、ペンでしっかりと印が付けられていた。
変える時間が一目で分かるようにと、多分先生が描いたのだろう。
「喜んで。最も、貴女の故郷の風景には遠く及びませんが」
「そんなことないわよ。これだって、よく手入れされているのが伝わって来るわ」
先ほど食まれたのと同じ葉の先をつつきながら、彼女は優しく笑っていた。
「これ、君たちは何て呼んでいるの?」
「マジョラム。あるいは、|オリガナム・マジョラナ《Origanum majorana》と」
「ふーん……。マジョラム、マジョラムねえ……」
「とても古くから愛用されていた香草で、祭事にもよく使われると」
「それよりもさ、魔女、っているじゃない?」
「え、あ、はあ」
あまりにも唐突な話題の切り返しに、当時の私はついていけなかった。
マジョラムという命名の由来は、古い言葉で偉大な~であるとか、花が真珠のようであるからだとか言われている。
が、少なくとも魔女とは何の関係もない、単なる発音合わせであることは確かだ。
発音の由来文化圏を合わせるのなら、マジョラムではなくマヨラナだし。
最も、彼女がそんな深いところまで考えるかと言われると、全くそんなことは無かったのだが。
「御伽話に出てくる魔女も素敵な魔法を使うでしょ。だからきっとこれはウンメイなのよ!」
「偶然だと思います」
「決めたわ!私は今から『マジョラム』です。君も舌を噛んでまで呼ぶ必要がなくなるし、いいわよね♪」
「こちらに来るときに名前を貰っているのでは……」
「忘れるような名前を渡す方が悪いわよ。ほら、呼んでみてちょうだい」
期待に満ちた彼女の視線には抗えない。
後で先生や他の担当者に向ける謝罪の言葉を考えながら、私は再び彼女の名を口にした。
「マジョラム様。では、庭園をご案内いたしましょう」
「ええ、よろしく♪君は───」
当然の挨拶。当然のやり取り。
誰もが疑問を挟む余地のない、自然な応答の一環。
その中で当時の私は、当時の名を名乗っていたのだ。
自ら捨てた、かつての名を
「私の名前は──────」




