第90話 荒野
冬の関東平野は、
どこまでも広く、どこまでも静かだった。
私は馬を進め、
江戸へ向かっていた。
家康殿が「新しい時代の中心」と言った場所。
だが、私の胸には疑問があった。
──本当に、ここから時代が生まれるのか。
街道を抜け、
やがて江戸の地が見えてきた。
だが、そこにあったのは──
城下町とは呼べぬ、荒野だった。
湿地が広がり、
川は蛇のように曲がり、
地面はぬかるみ、
人影はまばら。
私は馬を止めた。
「……ここが、江戸」
風が吹き、
草が揺れ、
遠くで鳥が鳴いた。
それだけだ。
城下町の喧騒も、
商人の声も、
寺社の鐘の音もない。
ただ、
“何もない”。
その時、
背後から馬の蹄の音が響いた。
「天海。
どうだ、江戸は」
家康殿だった。
私は振り返り、
荒野を見渡した。
「……何もありません」
「そうだ」
家康殿は満足げに頷いた。
「何もない。
だからこそ、
“何でも作れる”」
私は息を呑んだ。
「……この荒野から、
時代を作るおつもりですか」
「そうだ」
家康殿は馬を降り、
湿地の地面を踏みしめた。
「京は古すぎる。
大坂は豊臣の影が濃い。
だが江戸は──
“白紙”だ」
家康殿は地面に棒を突き立て、
即興で線を引き始めた。
「ここに城を置く。
ここに町を作る。
ここに寺社を配置し、
ここに街道を通す」
その線は、
まるで未来を描くようだった。
「天海。
お前には、この江戸を“整える”役目がある」
私は荒野を見渡した。
湿地。
川。
草原。
小さな漁村。
どこにも“都”の気配はない。
だが──
家康殿の線だけが、
確かに“未来”を描いていた。
「……本当に、
ここが時代の中心になるのですか」
「なる」
家康殿は迷いなく言った。
「わしがそう決めた。
そして──
お前が形にする」
私は深く頭を下げた。
「承知しました」
家康殿は続けた。
「江戸は湿地だ。
だが、湿地は“変えられる”。
川は“流れを変えられる”。
人の心も“整えられる”。
時代も同じだ」
私はその言葉を胸に刻んだ。
家康殿は空を見上げた。
「天海。
戦は終わった。
だが、
“時代を作る戦”はこれからだ」
私は荒野を見つめた。
風が吹き、
草が揺れ、
湿地が光る。
そのどれもが、
まだ形を持たない。
だが──
確かに“時代の胎動”があった。
「……江戸は、
まだ何者でもない」
私は呟いた。
「だからこそ、
何者にもなれる」
家康殿は満足げに頷いた。
「天海。
江戸を作るぞ」
「はい」
私は馬に乗り、
荒野の中へ進んだ。
ここから、
“江戸の時代”が始まる。




