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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第9話 東の風

 村を離れ、川沿いの道を進むと、空気が再び冷たくなった。

 山を下りたとはいえ、比叡の影はまだ背後にまとわりついているようだった。

 だが、胸の奥には確かな変化があった。


 ──光秀は死んだ。


 その事実が、歩くたびに静かに響く。

 惟任日向守としての死が世に広まり、追手の動きも鈍った。

 私はようやく“死者”として世界に戻ったのだ。


 川沿いの道をしばらく歩くと、前方に行商人の一団が見えた。

 荷車を引き、京へ向かう途中らしい。

 私は距離を取りながら、彼らの会話に耳を澄ませた。


「……京は荒れておるらしいぞ」


「そりゃそうだ。

 本能寺の後、山崎で明智が討たれたんだ。

 世が落ち着くわけがない」


「だが、東の方では家康様が動いているとか」


 私は足を止めた。


「家康様が?」


「ああ。

 堺から戻った後、京へ向けて密かに兵を整えているらしい。

 羽柴とどう動くか、誰にも読めぬそうだ」


「家康様は慎重なお方だ。

 明智が死んだ今、どう動くつもりなのか……」


 私は息を呑んだ。


 ──家康が動いている。


 その噂は、胸の奥に奇妙な熱を灯した。

 家康は、光秀の死をどう受け止めるのか。

 そして、これからの天下をどう見据えているのか。


 行商人たちは荷車を押しながら、京へ向かって歩き出した。

 私は彼らの背を見送り、静かに息を吐いた。


 川辺に腰を下ろし、冷たい水で顔を洗った。

 水面に映る自分の顔は、もはや惟任日向守でも光秀でもなかった。

 名を捨て、影として生きる者の顔だった。


 懐の黒い布を取り出し、指先で触れた。

 その黒は、朝の光を吸い込み、深く沈んでいる。


 ──次の名。


 僧の言葉が胸に蘇る。


 私は立ち上がり、川沿いの道をさらに進んだ。

 やがて、道の先に小さな茶屋が見えた。

 旅人が立ち寄る簡素な茶屋だが、煙が上がり、人の気配がある。


 私は慎重に近づき、戸口の影から中を覗いた。

 旅人が二人、茶をすすりながら話している。


「……明智の首、見たか?」


「いや、見てはおらんが、京では大騒ぎだ。

 首の顔が崩れていて、判別が難しかったとか」


「それで“影武者ではないか”なんて噂まで出ておるらしいな」


 私は息を呑んだ。


「だが、羽柴が“光秀の首に相違なし”と触れ回っておる。

 あれで決まりだろう」


「まあ、明智が生きていたら、それこそ化け物だ」


 二人は笑った。

 だが、その笑い声は私の胸に深く刺さった。


 ──私の死に、揺らぎがある。


 それは危険でもあり、同時に“道”でもあった。


 私は茶屋の裏手に回り、壁にもたれて息を整えた。

 そのとき、茶屋の主人らしき男が裏口から出てきた。


「おい、そこの旅の衆。

 茶でも飲んでいくか?」


 私は咄嗟に顔を伏せた。


「流れ者か。

 まあ、今は戦で行き倒れも多い。

 腹が減っておるなら、これでも食え」


 男は握り飯を差し出した。

 私は深く頭を下げ、それを受け取った。


「京へ行くのか?」


「……いえ。

 東へ向かうつもりです」


「東か。

 家康様の動きが気になるのか?」


 私は答えなかった。

 男はそれを肯定と受け取ったのか、静かに言った。


「東の風は、今、妙に強い。

 何かが動いておる。

 気をつけて行け」


 私は再び頭を下げ、茶屋を離れた。


 ──東の風。


 その言葉が胸に残った。


 家康が動いている。

 光秀の死に揺らぎがある。

 そして、私は“影として生きる者”になりつつある。


 川沿いの道を歩きながら、私は懐の黒い布を握りしめた。

 その黒は、朝の光の中でも深く沈んでいた。


 惟任日向守としての死を背負いながら、

 私は確かに“次の名”へ向かって歩き始めている。


 東の空が、ゆっくりと明るくなっていった。


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