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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第86話 胎動

 関ヶ原の霧が晴れた頃、

 戦場には静寂が戻っていた。


 叫び声も、

 太鼓の音も、

 槍のぶつかる音も消え──


 ただ、風だけが吹いていた。


 私は馬を進め、

 戦場の中央へ向かった。


 地面には折れた槍、

 倒れた旗、

 そして、

 新しい時代の匂いが漂っていた。


 ──戦は終わった。


 その時、

 東の方角から軍勢の足音が響いた。


 井伊直政の赤備え。

 榊原康政の黒備え。

 本多忠勝の槍。


 そして──

 その中心に、徳川家康がいた。


 家康は馬上で戦場を見渡し、

 静かに息を吐いた。


「……終わったか」


 その声は大きくなかった。

 だが、

 戦場全体に響くような重さがあった。


 私は家康の前に進み、

 深く頭を下げた。


「家康殿。

 関ヶ原は……

 東軍の勝利です」


 家康は頷いた。


「天海。

 お前の読みは正しかった。

 地形も、

 揺らぎも、

 裏切りも──

 全てが戦を決めた」


 私は静かに言った。


「勝ったのは、

 兵の数ではありません。

 “時代”です」


 家康は目を細めた。


「時代……か」


 彼は馬を降り、

 地面に落ちた一本の槍を拾った。


 折れた槍。

 血のついた槍。

 だが、その先には光が差していた。


「天海。

 わしは、この戦で“天下”を得たわけではない」


「……では、何を得たのですか」


「“時代の形”だ」


 家康は槍を地面に突き立てた。


「豊臣の時代は終わった。

 だが、

 わしの時代もまだ始まっておらぬ」


 私は息を呑んだ。


「……江戸の時代、ですか」


「そうだ。

 戦のない世を作る。

 そのために、

 わしは天下を整える」


 家康の目は、

 戦場ではなく、

 もっと遠くを見ていた。


「天海。

 お前に頼みたいことがある」


 私は姿勢を正した。


「承知しました」


「わしの影となれ。

 この先の世を作るために、

 わしの見えぬところを見よ」


 私は深く頭を下げた。


「……その役目、

 お受けいたします」


 家康は満足げに頷いた。


「天海。

 戦は終わった。

 だが──

 “時代の胎動”はこれからだ」


 その時、

 西の方角から馬の蹄の音が響いた。


 宇喜多秀家が退却し、

 島津が抜け、

 毛利が沈黙し、

 そして──

 石田三成は姿を消した。


 家康はその方角を見つめ、

 静かに言った。


「三成……

 あの男は、まだ終わっておらぬ」


 私は頷いた。


「はい。

 三成殿は、

 “理想の終わり”を見届けるために逃げました」


「ならば、

 わしは“時代の始まり”を作る」


 家康は馬に乗り直した。


「天海。

 京へ向かうぞ。

 豊臣の残り火を鎮め、

 新しい世を始める」


 私は馬を並べた。


「承知しました」


 関ヶ原の風が吹き、

 霧が完全に晴れた。


 その向こうに、

 確かに“江戸の時代”の影が見えた。


 ──時代は動き始めた。


 私は馬を走らせ、

 家康の後を追った。


 次は、

 京での決着だ。


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