第84話 裏切り
関ヶ原の霧は、
夜明けとともにさらに濃くなっていた。
視界は五歩先も見えず、
風は止み、
音だけが霧の中を漂っている。
──戦は、すでに始まっている。
東軍の赤備えが突撃し、
西軍の宇喜多秀家が応じ、
島左近が霧を裂いて突き進む。
だが、
戦の天秤はまだ傾かない。
私は南宮山を見上げた。
霧の向こうに、
小早川秀秋の陣がぼんやりと浮かんでいる。
動かない。
旗も揚がらない。
兵はざわめき、
秀秋は陣幕の中で震えている。
──決断の時が迫っている。
その時、
東軍の陣から一つの影が動いた。
井伊直政だ。
赤備えの先頭で、
南宮山へ向けて馬を走らせている。
密偵が叫んだ。
「天海様!
直政様が……秀秋殿の陣へ向かっています!」
私は息を呑んだ。
「……家康殿の命か」
直政は山の麓で馬を止め、
秀秋の陣へ向けて叫んだ。
「秀秋殿──!
動かねば、
“西軍と見なす”ぞ!」
その声は霧を震わせ、
南宮山全体に響き渡った。
秀秋の陣が揺れた。
兵がざわめき、
旗が揺れ、
陣幕の中で影が動く。
私は南宮山へ向かい、
秀秋の陣幕の前に立った。
「秀秋殿。
決める時です」
陣幕が開き、
秀秋が姿を見せた。
顔は青白く、
目は揺れ、
手は震えている。
「……天海殿……
私は……
どちらにつけば……」
「どちらでもない」
秀秋は息を呑んだ。
「……え……?」
「あなたは“勝つ側”につく。
それだけです」
秀秋の目が揺れた。
「勝つ側……」
「そうだ。
あなたは裏切り者ではない。
“時代の鍵”だ」
その瞬間──
霧の流れが変わった。
南宮山の上空で風が渦を巻き、
霧が裂け、
秀秋の陣が露わになる。
私は呟いた。
「……来る」
秀秋は震える手で刀を握り、
ゆっくりと立ち上がった。
その目に、
恐れと決意が同時に宿る。
「……私は……
動く」
その声は震えていたが、
確かに“決断”だった。
秀秋は刀を掲げ、
叫んだ。
「全軍──前へッ!!」
その瞬間、
南宮山が動いた。
小早川秀秋の兵が、
霧を裂いて駆け下りる。
その勢いは、
まるで堰を切った川のようだった。
密偵が叫んだ。
「天海様!
秀秋殿が……
西軍へ突撃しています!!」
私は目を細めた。
「……裏切りではない。
“時代の選択”だ」
秀秋の軍勢は、
西軍の側面へ突き刺さった。
宇喜多秀家の兵が揺れ、
三成の中央が崩れ、
島左近の突撃が止まる。
霧の中で、
戦の天秤が大きく傾いた。
私は空を見上げた。
霧が裂け、
光が差し込み、
その向こうに──
“時代の形”が見えた。
「……これで、決まる」
私は馬に乗り、
戦の中心へ向かった。
関ヶ原は、
ついに“決着”へ向かって動き始めた。




