第83話 火蓋
夜明け前の関ヶ原は、
まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
風は止み、
空は重く、
霧が盆地を覆い尽くしている。
──音が消えている。
私は馬を降り、
霧の中に立った。
視界は十歩先も見えない。
だが、耳を澄ませば──
兵の息遣い、甲冑の擦れる音、
そして、遠くで太鼓の低い響き。
「……始まる」
その時、
東の山道から赤い影が動いた。
井伊直政の赤備えだ。
霧の中でも、
その赤は異様なほど鮮やかだった。
直政の声が響く。
「前へ──進めッ!」
その瞬間、
関ヶ原の静寂が破れた。
太鼓が鳴り、
兵が叫び、
地面が震えた。
──関ヶ原、開戦。
私は霧の中を進み、
東軍の中央へ向かった。
榊原康政の黒備えが動き、
本多忠勝の槍が霧を裂く。
だが、
霧が深すぎる。
敵の姿が見えない。
味方の位置も曖昧だ。
その時、
西の霧の奥から、
重い足音が響いた。
宇喜多秀家の軍勢だ。
霧を押し分け、
怒涛の勢いで東軍へ突っ込んでくる。
私は息を呑んだ。
「……秀家殿、速い」
西軍の中央が動いたことで、
東軍の前線は一気に押し込まれた。
霧の中で、
赤と黒と白が入り乱れ、
叫び声が響く。
その時、
密偵が駆け寄ってきた。
「天海様……!
小早川秀秋の陣が……動きません!」
私は目を細めた。
「……まだ決めていないのだ」
「はい。
秀秋殿は陣幕の中で震えていると……」
私は南宮山の方角を見た。
霧の向こうに、
秀秋の陣がぼんやりと浮かんでいる。
動かない。
旗も揚がらない。
──揺らぎの極み。
その時、
霧の中から別の密偵が飛び込んできた。
「天海様!
島左近が動きました!
東軍の右を突いています!」
私は息を呑んだ。
島左近──
三成の最強の武将。
その突撃は、
霧の中で最も恐ろしい。
東軍の右が揺れ、
兵が押し返される。
私は霧の中を走り、
島左近の突撃を見た。
霧を裂くように、
左近の槍が光る。
その動きは、
まるで霧そのものを操っているかのようだった。
「……これが、三成殿の“理想の兵”か」
だが──
その勢いは長く続かない。
東軍の中央が踏みとどまり、
本多忠勝が前へ出た。
霧の中で、
忠勝の槍が左近の兵を押し返す。
その時、
私は“違和感”を感じた。
霧の流れが変わった。
風が止まり、
霧が南宮山の方へ吸い寄せられるように動く。
私は呟いた。
「……裏切りの兆し」
密偵が震える声で言った。
「天海様……
秀秋殿が……?」
「まだだ。
だが──
“決断の瞬間”が近い」
私は南宮山を見つめた。
霧の向こうで、
小早川秀秋の陣が揺れている。
兵がざわめき、
旗が揺れ、
秀秋の影が動く。
──決断の時が迫っている。
私は霧の中に立ち、
戦の流れを見つめた。
東軍が押され、
西軍が攻め、
霧が満ち、
裏切りの気配が濃くなる。
「……次は、秀秋殿が動く番だ」
私は馬に乗り、
南宮山の方角へ向かった。
決戦の核心が、
ついに動き始めた。




