第81話 霧の前夜
美濃の空は、朝から重く垂れ込めていた。
冬の雲が低く、
風は冷たく、
山々は沈黙している。
──関ヶ原が、息を潜めている。
私は馬を進め、
再び関ヶ原の盆地へ入った。
昨日よりも、
空気が湿っている。
地面の奥から、
何かが湧き上がるような気配があった。
「……霧が来る」
私は呟いた。
その時、
密偵が駆け寄ってきた。
「天海様……!
東の山道に、徳川の先鋒が入りました!」
私は目を細めた。
「井伊直政か」
「はい。
赤備えが、すでに布陣を始めています」
私は盆地の中央へ向かった。
そこには、
井伊直政の赤い甲冑が並び、
榊原康政の黒備えが続いていた。
兵たちは静かに動き、
声を荒げる者は一人もいない。
──東軍は、すでに“決戦の構え”だ。
私は山道を登り、
南宮山の麓へ向かった。
そこに、
小早川秀秋が陣を敷く予定の場所がある。
山の上からは、
関ヶ原全体が見渡せる。
霧が出れば、
その動きは誰にも読めない。
「……ここが裏切りの舞台」
私は確信した。
その時、
別の密偵が駆け寄ってきた。
「天海様……!
西から、軍勢の気配が!」
私は山を降り、
西の街道へ向かった。
遠くから、
太鼓の音が響いてくる。
重く、
ゆっくりと、
だが確実に近づいてくる。
やがて、
旗が見えた。
──宇喜多秀家の旗。
その後ろには、
石田三成の旗が続いている。
私は息を呑んだ。
「……来たか」
西軍の兵は多い。
だが、その足取りは重い。
秀家の兵は整っているが、
三成の兵は疲れている。
そして──
毛利の兵は、まだ動かない。
私は街道の脇に立ち、
三成の姿を見つめた。
痩せた顔。
鋭い目。
その奥に、
燃えるような意志があった。
三成は私に気づき、
馬を止めた。
「……天海殿」
「三成殿。
ついに動きましたか」
三成は頷いた。
「秀家殿が動いた。
ならば、私も動くしかない」
その声は震えていなかった。
だが、
その奥には焦りがあった。
「三成殿。
この地は……
“裏切りの地”です」
三成は目を細めた。
「……わかっている。
だが、私は信じるしかない。
秀家殿を。
毛利を。
そして──
時代を」
私は静かに言った。
「時代は、
あなたの理想を試しています」
三成は馬を進めた。
「ならば、
私は理想で戦う」
その背中は、
まるで燃えるようだった。
私はその姿を見送り、
空を見上げた。
冬の雲が流れ、
その向こうに、
薄い霧が広がり始めていた。
「……霧が満ちる」
密偵が震える声で言った。
「天海様……
戦が……始まるのですか」
「まだだ。
だが──
“決戦の前夜”だ」
私は盆地の中央へ戻り、
地面に手を当てた。
冷たい。
だが、その奥に“震え”がある。
──関ヶ原が、戦を待っている。
私は僧衣の裾を揺らし、
盆地を見渡した。
東軍が入り、
西軍が迫り、
霧が満ち始める。
その全てが、
ひとつの場所へ収束していく。
「……次は、布陣が揃う番だ」
私は馬に乗り、
関ヶ原を後にした。
決戦の足音が、
確実に近づいていた。




