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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第8話 死者の名を聞く

 谷を抜け、比叡山の影が背後に遠ざかると、空気がわずかに変わった。

 山中の霧は薄れ、木々の隙間から差し込む朝の光が、地面にまだらな影を落としている。

 私は深く息を吸い、湿った衣を絞った。


 ──ここから先は、俗世だ。


 僧の庵で過ごした静かな夜が、すでに遠い昔のように思えた。

 惟任日向守としての死を背負い、次の名へ向かうためには、

 この山を抜け、人の世界へ戻らねばならぬ。


 しばらく歩くと、木々の間から小さな村が見えた。

 煙が上がり、朝餉の匂いが漂ってくる。

 私は慎重に距離を取り、村の外れにある井戸のそばで耳を澄ませた。


 そのとき、村人の声が聞こえた。


「……明智は討たれたそうな」


 私は息を呑んだ。


「首が上がったと、京からの早馬が言うておったぞ」


「やっとか。あれだけのことをしでかしたのだ。

 討たれて当然よ」


 村人たちは笑いながら話していた。

 その笑い声が、胸の奥に鋭く突き刺さった。


 ──光秀の首が、上がった。


 私は井戸の影に身を潜め、耳を澄ませた。


「小栗栖で討たれたらしい。

 農民が仕留めたとか、いや、落ち武者狩りだとか……」


「どちらにせよ、もう明智はおらん。

 世は織田と羽柴のものよ」


 私は目を閉じた。

 惟任日向守としての死を偽装したとはいえ、

 それがここまで早く、ここまで確実に広まるとは思わなかった。


 ──私は、死んだのだ。


 世界は、すでに私を“死者”として扱っている。


 そのとき、村の子どもが叫んだ。


「おい、あんた! 誰だ!」


 私は反射的に顔を上げた。

 子どもがこちらを指さし、村人たちが振り返る。


「旅の者か? 見ぬ顔だな」


 私は咄嗟に口を開いた。


「……名乗るほどの者ではござらぬ。

 ただの、行き倒れの浪人にございます」


 自分でも驚くほど自然に言葉が出た。

 惟任日向守でも、光秀でもない。

 “名のない者”としての声だった。


「浪人か。

 まあ、今は戦で流れ者も多い。

 腹が減っておるなら、これでも食え」


 村人が握り飯を差し出した。

 私は深く頭を下げ、それを受け取った。


 ──私は、死んだ者として扱われている。


 その事実が、胸の奥で静かに広がっていった。


 村を離れ、川沿いの道を歩きながら、私は握り飯を口に運んだ。

 味は薄かったが、温かかった。


 その温かさが、妙に胸に沁みた。


 ──光秀は死んだ。

 ならば、私は何者として生きるのか。


 懐の黒い布が、衣越しに触れた。

 僧が渡してくれた布だ。

 その黒は、朝の光の中でも深く沈んでいた。


 影の色。

 次の名へ向かうための印。


 私は布を握りしめ、歩みを進めた。


 そのとき、遠くで犬の吠え声がした。

 追手だ。

 だが、声は先ほどよりも弱い。


「……明智は討たれたと報告が出た。

 もう深追いは不要だ」


 追手の声が風に乗って届いた。


 ──追跡が、止まった。


 私は静かに息を吐いた。

 惟任日向守としての死が、世界に認められたのだ。


 影として生きる道が、ようやく開けた。


 私は川沿いの道を歩き続けた。

 次の名へ向かうために。


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