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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第76話 布陣

 小早川秀秋の“揺らぎ”を見届け、

 私は急ぎ駿府へ戻った。


 冬の街道は冷たく、

 風は鋭く、

 空はどこまでも重かった。


 ──戦の匂いが、確実に濃くなっている。


 駿府に着いたのは夜だった。


 だが、城内は静かではなかった。

 兵の足音、使者の往来、

 そして、家康の居室から漏れる灯り。


 私はその灯りの方へ向かった。


 襖を開けると、

 家康は地図の前に座っていた。


 その目は、

 すでに“戦の形”を見据えている。


「戻ったか、天海」


「はい。

 西国は揺れています。

 特に──小早川秀秋が」


 家康は目を細めた。


「秀秋がどうした」


「迷っています。

 豊臣にも徳川にもつけず、

 ただ揺らいでいる」


 家康は笑った。


「揺らぐ者ほど、

 戦の鍵になる」


 私は頷いた。


「秀秋殿は、

 黒田長政に囁かれています。

 “徳川につけば安泰だ”と」


「長政か。

 あの男は、戦の形を作るのが上手い」


 家康は地図を指で叩いた。


「天海。

 秀秋は、どちらにつく」


「まだ決めていません。

 ですが──

 “裏切る時期”を探しています」


 家康の目が鋭く光った。


「裏切り……

 それが、戦を決める」


 私は静かに言った。


「秀秋殿は、

 “戦が始まるその瞬間”まで動きません。

 その時こそ、

 彼が鍵となるでしょう」


 家康は深く頷いた。


「天海。

 お前の読みは正しい。

 秀秋は、戦の天秤を傾ける者だ」


 家康は立ち上がり、

 地図の上に手を置いた。


「西国は三成。

 東国は徳川。

 その間に揺れる者たちが、

 戦の形を決める」


 私は息を呑んだ。


「……関ヶ原、ですか」


「そうだ」


 家康は迷いなく言った。


「戦は、

 “関ヶ原”で決まる」


 その言葉は、

 まるで未来を断言するようだった。


「天海。

 お前に新たな密命を与える」


 私は姿勢を正した。


「承知しました」


「西国の心を読み続けよ。

 宇喜多、毛利、小早川……

 誰が三成につき、

 誰が裏切るか」


 家康の声は低く、

 だが揺るぎなかった。


「戦は避けられぬ。

 だが、勝つ戦にせねばならぬ」


 私は深く頭を下げた。


「……必ず」


 家康は続けた。


「天海。

 わしは上洛する。

 豊臣の残り火を鎮め、

 天下の形を整えるためだ」


 私は静かに言った。


「三成殿は、

 毛利を頼り、

 戦を起こす気です」


「ならば、

 わしは“戦を終わらせる”」


 家康の目は、

 まるで刀のように鋭かった。


「天海。

 お前は影として動け。

 戦の形を整え、

 裏切りの気配を読み、

 勝つための道を作れ」


 私は胸に手を当てた。


「承知しました」


 家康は満足げに頷いた。


「天海。

 戦はまだ始まっておらぬ。

 だが──

 “布陣”は始まった」


 私は居室を出た。


 冬の空は重く、

 風は冷たい。


 だが、

 その向こうに、

 確かに“関ヶ原”の影が見えた。


 ──次は、西国の心をさらに深く読む番だ。


 私は僧衣の裾を揺らし、

 駿府城を後にした。


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