第71話 脱出
石田三成が姿を消した──。
その報せが京に広まったのは、
秀吉の死から六日目の朝だった。
冬の空は重く、
風は冷たく、
町の人々は怯えたように伏見城の方角を見つめている。
──豊臣の中心が、ついに崩れた。
私は寺の一室で、
密偵からの報告を聞いていた。
「天海様……!
三成殿の屋敷はもぬけの殻です!」
「いつだ」
「昨夜のうちに……
誰にも気づかれずに」
私は目を閉じた。
──三成は、追放ではなく“脱出”を選んだ。
それは、
彼がまだ“戦う意思”を捨てていない証だった。
「清正と正則は?」
「激怒しております。
“逃がしたのは誰だ”と、
家中を荒らし回っているとか……」
私は静かに言った。
「逃がした者などいない。
三成殿は、自分で逃げた」
密偵は息を呑んだ。
「では……
三成殿はどこへ?」
私は立ち上がった。
「それを見抜くのが、私の役目だ」
寺を出ると、
京の空気は異様なほど張り詰めていた。
武士たちが走り回り、
町人たちは戸を閉め、
伏見城の周囲には怒号が響いている。
私は裏道を歩きながら、
昨夜の三成の行動を頭の中で再構築した。
──三成は、京に留まれない。
清正と正則がいる限り、
彼は生き残れない。
だが、
死ぬ気もない。
ならば、向かう先は──
「……西だ」
私は呟いた。
その時、
背後から声がした。
「天海様!」
密偵が駆け寄ってきた。
「三成殿の家臣が一人、
伏見城の裏門で捕まりました!」
「何を持っていた」
「これを……!」
密偵が差し出したのは、
小さな木札だった。
そこには、
ある地名が刻まれていた。
──「大坂」。
私は目を細めた。
「……やはり」
密偵は震える声で言った。
「三成殿は……
大坂へ向かったのですか」
「いや。
これは“囮”だ」
密偵は息を呑んだ。
「囮……?」
「大坂は豊臣の本拠。
あまりにも露骨すぎる」
私は木札を握りしめた。
「三成殿は、もっと遠くへ行く。
徳川の手が届かず、
豊臣の旗が残る地へ」
「では……どこへ?」
私は地図を思い浮かべた。
大坂ではない。
佐和山でもない。
京から遠く、
豊臣の恩義が残り、
徳川が簡単には手を出せない地。
──西国。
その中でも、
最も“豊臣の理想”が残っている地。
「……毛利か」
私は呟いた。
密偵は目を見開いた。
「毛利……!
まさか、三成殿は毛利を頼るつもりで……?」
「あり得る。
毛利は秀吉殿下に恩がある。
そして、徳川を警戒している」
私は続けた。
「三成殿は、
“豊臣の理想”を守るために動いている。
ならば、毛利こそ最も相応しい」
密偵は震える声で言った。
「では……
天下は……」
「東と西に割れる」
私は断言した。
「三成殿が毛利と結べば、
徳川と豊臣の対立は避けられない」
密偵は息を呑んだ。
「天海様……
どうされますか」
「決まっている」
私は僧衣の袖を揺らし、
冬の風の中へ歩き出した。
「三成殿の行き先を追う。
それが、家康殿からの密命だ」
密偵は深く頭を下げた。
「お気をつけて……!」
私は京の町を抜け、
西へ向かう街道へ出た。
冬の空は重く、
風は冷たい。
だが、
その向こうに、
確かに“時代の裂け目”が見えた。
──三成は西へ向かった。
そして、
その先にあるのは──
天下の再編だ。
私は馬を走らせた。
豊臣の崩れの先に、
徳川の時代が待っている。




