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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第7話 山を降りる影

 朝の霧が薄れ、比叡山の木々が静かに姿を現した。

 庵の前に立つと、夜の冷気がまだ残っている。

 私は黒い布を懐にしまい、深く息を吸った。


 ──ここを出ねばならぬ。


 僧の言葉が胸の奥で響いていた。

 惟任日向守としての死を背負い、次の名へ向かうためには、

 この山に留まるわけにはいかない。


「行くのだな」


 背後から僧の声がした。

 振り返ると、僧は庵の戸口に立ち、朝の光を背にしていた。

 その姿は、まるで山そのものが人の形を取ったかのようだった。


「……はい。

 ここに長く留まれば、あなたに迷惑がかかります」


「迷惑など、山は気にせぬ。

 だが、おぬしの道はここにはない」


 僧はゆっくりと歩み寄り、私の肩に手を置いた。

 その手は驚くほど温かかった。


「影は、光の届かぬ場所でこそ力を持つ。

 だが、影が影であるためには、光を知っていなければならぬ」


 私はその言葉を噛みしめた。

 光を知る者だけが、影として生きられる──

 それは、惟任日向守としての私が最も理解していることだった。


「……あなたは、私がどこへ向かうべきかをご存じなのですか」


 僧は首を横に振った。


「道は自ら選ぶものだ。

 だが、選んだ道が正しいかどうかは、歩いた後にしかわからぬ」


 その言葉は、妙に胸に落ちた。

 私は深く頭を下げた。


「恩、忘れませぬ」


「忘れてよい。

 影は、誰にも知られずに歩むものだ」


 僧はそう言い、庵の戸を静かに閉めた。

 私はしばらくその戸を見つめていたが、やがて山道へと歩き出した。


 霧が晴れ、比叡山の斜面が朝の光に照らされる。

 鳥の声が響き、夜の緊張が少しずつ溶けていく。

 だが、私の胸の奥には、まだ重い影が残っていた。


 ──次の名。


 僧の言葉が、何度も反芻される。

 惟任日向守としての死を偽装したとはいえ、

 私はまだ“死んだ名”を抱えたままだ。


 その名が、私の足を重くしている。


 山道を下るにつれ、遠くから人の声が聞こえてきた。

 私は足を止め、耳を澄ませた。


「……このあたりに痕跡があるはずだ」


「犬が匂いを追っておる。逃げられぬぞ」


 追手だ。

 まだ諦めていない。


 私は木陰に身を潜め、息を潜めた。

 松明の光が霧の中で揺れ、影が伸び縮みする。

 犬の吠え声が鋭く跳ね、私の胸を刺した。


 ──まだ距離はある。


 だが、油断はできぬ。

 私は山道を外れ、獣道のような細い道へと足を踏み入れた。

 枝が衣に引っかかり、顔に当たる。

 だが、構っている余裕はない。


 足元の土が滑り、私は転びそうになった。

 左腕の傷が再び開き、温かい血が流れ落ちる。

 痛みが走ったが、私は歯を食いしばった。


 ──生き延びねばならぬ。


 その思いだけが、私を前へ押し出していた。


 やがて、木々の間から小さな谷が見えた。

 谷底には細い川が流れ、朝の光を反射している。

 私は川沿いに下り、冷たい水で顔を洗った。


 水面に映った自分の顔を見て、息を呑んだ。


 そこに映っていたのは、惟任日向守ではなかった。

 光秀でもない。

 名を捨て、影として生きようとする男の顔だった。


 私は川の水をすくい、傷口を洗った。

 冷たさが痛みを和らげる。


 ──名を捨てた者は、何者になるのか。


 その問いが、再び胸に浮かんだ。


 川の流れを見つめていると、ふと黒い布の感触が懐から伝わった。

 僧が渡してくれた布だ。

 その黒は、朝の光の中でも深く沈んでいた。


 影の色。

 次の名へ向かうための印。


 私は布を握りしめ、立ち上がった。


 追手の声が再び遠くで響いた。

 だが、私はもう恐れていなかった。


 惟任日向守としての死を背負いながら、

 私は確かに“次の名”へ向かって歩き始めている。


 比叡山の影が、背後で静かに揺れていた。


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