第67話 動く影
豊臣秀吉が死んだ翌日、
京の空は、まるで何かを喪ったように重く沈んでいた。
伏見城の周囲には泣き声が響き、
町の人々は皆、怯えたように空を見上げている。
──天下が揺れる。
その予感は、京の空気そのものになっていた。
私は寺を出て、
密かに駿府へ向かった。
家康が動く。
その確信があった。
冬の街道を急ぎ、
駿府城に着いたのは夜だった。
だが、城内は異様なほど明るかった。
家康はすでに、
“次の時代”の準備を始めていた。
私は家康の居室へ通された。
襖を開けると、
家康は地図の前に座っていた。
その目は、
秀吉の死を悲しむどころか、
むしろ静かに燃えていた。
「来たか、天海」
「はい。
秀吉殿下が……」
「死んだな」
家康は淡々と言った。
その声には、
悲しみも、驚きもなかった。
ただ、
“時が来た”という確信だけがあった。
「三成はどう動いた」
「秀頼殿の後見を固めようとしています。
徳川を排除すべしという声も上がっています」
家康は笑った。
「焦っておるな」
その笑みは、
獲物を見据える獣のようだった。
「天海。
秀吉が死んだ今、
天下は必ず二つに割れる」
「東と西……」
「そうだ。
そして、東の柱は徳川だ」
家康は地図を指で叩いた。
「天海。
お前に新たな密命を与える」
私は姿勢を正した。
「承知しました」
家康の声は低く、
だが揺るぎなかった。
「京へ戻れ。
石田三成の動きを探れ。
そして──
“徳川にとって危険な芽”を見つけ、折れ」
私は息を呑んだ。
これは、
天海としての最初の“影の任務”だった。
「……承知しました」
家康は続けた。
「三成は忠義者だ。
だが、忠義が強すぎる者は、
時に天下を乱す」
私は静かに言った。
「三成殿は、秀頼殿を守ろうとしています」
「守るために、徳川を敵に回す。
それが危険なのだ」
家康は地図を広げた。
「天海。
お前は三成の心を読むのが得意だ。
あの男の“焦り”を見たのだろう」
「はい。
秀吉殿下の死を前に、
彼は冷静さを失いつつあります」
「ならば、天下は動く」
家康は立ち上がった。
「天海。
お前は影として動け。
徳川の名を出すな。
だが、徳川のために動け」
私は深く頭を下げた。
「……承知しました」
家康は満足げに頷いた。
「江戸はまだ始まったばかりだ。
だが、天下はすでに動き始めている。
お前は江戸と京、
二つの未来を繋ぐ者だ」
私は胸に手を当てた。
光秀としての罪が疼く。
宗易としての迷いが揺れる。
だが──
天海としての使命が、
そのすべてを押し沈めた。
「家康殿。
私は影として動きます。
徳川の未来のために」
家康は静かに言った。
「行け、天海。
京は今、
“誰が敵で誰が味方か”わからぬ」
私は駿府城を出た。
冬の空は重く、
風は冷たい。
だが、
その向こうに、
確かに“時代の裂け目”が見えた。
──次は、三成の心を読む番だ。
私は馬を走らせた。
江戸の始まりの先に、
京の崩れがあり、
そのさらに先に──
天下の再編が待っている。




