第64話 兆候
京の夜は、異様なほど静かだった。
冬の冷気が町を包み、
人々は早々に戸を閉め、
灯りを落としている。
だが──
その静けさの奥で、
確かに何かが蠢いていた。
伏見城の方角から、
かすかなざわめきが聞こえる。
──秀吉の容体が、さらに悪化した。
その噂は、京の町を覆い尽くしていた。
私は寺の一室で、
密かに集めた情報を整理していた。
秀吉の側近、前田玄以。
淀殿の周囲に集まる女房衆。
石田三成を中心とした奉行衆。
そして、徳川を警戒する者たち。
京は、
まるで火薬庫のようだった。
そこへ、
密偵が駆け込んできた。
「天海様……!
伏見城で、重臣たちが集められております!」
私は目を細めた。
「三成か」
「はい。
“秀頼様の後見”について、
何やら密議が行われているようです」
私は僧衣の袖を整え、
立ち上がった。
「行くぞ」
密偵は驚いた。
「危険です!
三成殿は、あなたを疑っております!」
「疑われているからこそ、
こちらから動く」
私は寺を出た。
京の夜道は暗く、
風が冷たく頬を刺す。
伏見城の近くに着くと、
すでに多くの武士が集まっていた。
その中に、
石田三成の姿があった。
鋭い目。
張り詰めた空気。
まるで刀のような男。
三成は私に気づくと、
ゆっくりと歩み寄ってきた。
「……天海殿。
また京を歩いておられるのか」
私は静かに答えた。
「死者の魂は、夜にこそ騒ぐものです」
三成は笑わなかった。
「天海殿。
あなたの動き、
やはり気になる」
──来た。
私は僧衣の袖を揺らし、
静かに言った。
「私は影ではない。
ただの僧です」
三成の目が細くなった。
「影ではない者が、
なぜ伏見城の周りを歩く?」
「秀吉殿下の容体が気になっただけです」
三成は一歩近づいた。
「天海殿。
秀吉様は、もはや長くない」
私は息を呑んだ。
だが、表情は変えなかった。
「そうですか」
「だが、天下は豊臣が治める。
徳川が勝手に動くことは許されぬ」
その言葉は、
明らかな“牽制”だった。
私は一歩も引かずに言った。
「徳川殿は、動いておりません」
三成は目を細めた。
「……本当にそうか?」
「少なくとも、
私の知る限りでは」
三成はしばらく私を見つめ、
やがて低く言った。
「天海殿。
あなたは“何者”だ?」
その問いは、
胸の奥を鋭く刺した。
光秀としての罪が疼く。
宗易としての迷いが揺れる。
だが──
天海としての答えは、すでに決まっていた。
「私は影ではない。
ただ、死者の声を聞く者です」
三成は沈黙した。
その沈黙は、
私の言葉を測っている沈黙だった。
やがて、三成はふっと笑った。
「……ならば、好きに歩くがよい。
だが、京は今、
“誰が敵で誰が味方か”わからぬ」
私は深く頭を下げた。
「心得ております」
三成は背を向けた。
「天海殿。
あなたの動き、
しばらく見させてもらう」
その言葉は、
脅しではなく“宣告”だった。
三成が去ると、
冬の風が路地を吹き抜けた。
私は僧衣の裾を握りしめた。
──危険は増した。
だが、
天海としての使命は揺らがない。
秀吉の死が近い。
そして、
天下が動く。
私は空を見上げた。
京の雲は低く、
その向こうに、
確かに“時代の裂け目”が見えた。
──次は、三成の裏を読む番だ。




