第63話 潜入
京の空気は、江戸とはまるで違っていた。
湿地の匂いも、潮風もない。
だが──
その代わりに、もっと重いものが漂っている。
権力の匂い。
陰謀の匂い。
そして、死の匂い。
伏見城の方角から、
かすかに太鼓の音が響いていた。
──秀吉の容体が悪い。
その噂は、京の町を覆い尽くしていた。
私は僧衣の袖を揺らし、
人混みの中を静かに歩いた。
天海としての潜入は、これが初めてだ。
だが、光秀としての記憶が、
京の空気を読む術を思い出させる。
──京は、表と裏が同じ顔をしている。
その時、
背後から声がした。
「南光坊天海殿、であったな」
私は振り返らずに言った。
「誰だ」
「石田三成殿がお呼びだ」
振り返ると、
黒い羽織の武士が立っていた。
その目は鋭く、
“疑い”を隠そうともしない。
「……案内せよ」
私は静かに頷いた。
武士に導かれ、
伏見城の一角へ向かう。
城の中は異様なほど静かだった。
だが、その静けさの奥に、
重臣たちのざわめきが渦巻いている。
やがて、
薄暗い一室に通された。
そこに──
石田三成がいた。
痩せた顔。
鋭い目。
整った衣。
そして、張り詰めた空気。
まるで刀のような男だった。
「……天海殿」
三成は座ったまま、
私を見据えた。
「徳川殿の使いか」
私は静かに答えた。
「私は僧。
死者の魂を弔うために参っただけです」
三成は笑わなかった。
「京は今、繊細な時期だ。
余計な者が動けば、
天下が乱れる」
その言葉は、
明らかな“牽制”だった。
私は一歩も引かずに言った。
「死者は、時を選ばぬ。
弔いもまた、時を選ばぬ」
三成の目が細くなった。
「……口が回る僧だな」
「僧は言葉で人を救うものです」
三成はしばらく私を見つめ、
やがて低く言った。
「天海殿。
秀吉様の容体は、
もはや長くない」
私は息を呑んだ。
だが、表情は変えなかった。
「そうですか」
「だが、天下は豊臣が治める。
徳川が勝手に動くことは許されぬ」
──探りだ。
三成は、
私が“徳川の影”であることを疑っている。
私は僧衣の袖を揺らし、
静かに言った。
「私は影ではない。
ただの僧です」
三成は首を傾げた。
「影ではない……か。
だが、影でない者が、
なぜ江戸から京へ来た?」
私は答えた。
「江戸には、死者が多い。
北条の滅びの後、
弔うべき魂が山ほどある」
三成の目が揺れた。
──北条。
その名は、
豊臣にとって“痛み”の象徴だ。
「北条の名を出すか」
「死者に上下はありません」
三成はしばらく黙り、
やがて言った。
「……天海殿。
あなたの動き、しばらく見させてもらう」
その言葉は、
脅しではなく“宣告”だった。
私は深く頭を下げた。
「ご随意に」
三成は手を振った。
「下がれ」
私は部屋を出た。
廊下に出た瞬間、
背中に冷たい汗が流れた。
──危険だ。
石田三成は、
徳川の影を探している。
そして、
その影が“天海”である可能性を疑っている。
だが──
私は影ではない。
影であることを、
誰にも悟られてはならない。
伏見城を出ると、
冬の風が僧衣を揺らした。
私は空を見上げた。
京の空は重く、
雲は低い。
その向こうに、
確かに“時代の裂け目”が見えた。
──秀吉の死が近い。
そして、
天下が動く。
私は僧衣の裾を握りしめた。
天海としての使命は、
ここからが本番だ。




