第62話 兆し
江戸の湿地に、冬の風が吹き抜けていた。
北条の家臣たちは、
それぞれの役目を与えられ、
荒野の中で少しずつ動き始めている。
大道寺は漁村をまとめ、
笠原は湿地の開拓に着手し、
成田は治安維持のために巡回を始めた。
──江戸は、まだ眠っている。
だが、確かに“動き出した”。
私は丘の上で、
江戸湾を見下ろしていた。
潮の香り。
湿った風。
遠くで鳴く海鳥。
そのすべてが、
未来の胎動のように感じられた。
そこへ、馬の蹄の音が響いた。
「天海様!」
駿府からの使者が駆け上がってきた。
その顔は蒼白で、
息は荒い。
「京より急報です!
秀吉殿下の御身、
いよいよ……」
私は目を細めた。
「悪いのか」
「はい。
伏見城にて、
重臣たちが連日集められているとのこと。
“後継”を巡り、
京は騒然としております」
風が止んだ。
江戸の静けさが、
逆に不気味に感じられた。
「……来たか」
私は呟いた。
秀吉の死。
それは、天下の形が変わる瞬間。
そして──
徳川家康が動く瞬間でもある。
「家康殿は?」
「すぐに天海様を駿府へ呼べとのことです!」
私は頷き、
僧衣の裾を翻した。
「江戸を頼む。
私は駿府へ向かう」
家臣たちが深く頭を下げた。
「天海様……
どうか、お気をつけて」
私は馬に乗り、
冬の街道を駆けた。
江戸の湿地が遠ざかり、
代わりに、
天下の緊張が胸に迫ってくる。
──秀吉が死ねば、天下は乱れる。
その乱れの中で、
徳川がどう動くか。
そして、
天海としての私は何をすべきか。
駿府に着くと、
家康はすでに待っていた。
地図の前に座り、
その目は鋭く光っている。
「来たか、天海」
「京より急報を聞きました」
家康は頷いた。
「秀吉は長くない。
だが、死ぬ前に“天下を固める”つもりだ」
私は静かに言った。
「後継は……秀頼殿ですか」
「そうだ。
だが、秀頼はまだ幼い。
その背後には淀殿、三成、石田派がいる」
家康は地図を指で叩いた。
「天海。
秀吉が死ねば、
天下は必ず二つに割れる」
私は息を呑んだ。
「東と西……」
「そうだ。
そして、東の柱は徳川だ」
家康は私を見た。
「天海。
お前に新たな密命を与える」
私は姿勢を正した。
「承知しました」
家康の声は低く、
だが揺るぎなかった。
「京へ行け」
私は目を見開いた。
「京……」
「秀吉の死の気配を探れ。
石田三成の動きを見よ。
そして──
“徳川にとって危険な芽”を見つけ、
折れ」
その言葉は、
天海にとって初めての“影の任務”だった。
私は静かに頭を下げた。
「……承知しました」
家康は続けた。
「江戸はまだ始まったばかりだ。
だが、天下はすでに動き始めている。
お前は江戸と京、
二つの未来を繋ぐ者だ」
私は胸に手を当てた。
光秀としての罪が疼く。
宗易としての迷いが揺れる。
だが──
天海としての使命が、
そのすべてを押し沈めた。
「家康殿。
私は影として動きます。
徳川の未来のために」
家康は満足げに頷いた。
「行け、天海。
京は、今まさに“崩れ始めている”」
私は駿府城を出た。
冬の空は重く、
風は冷たい。
だが、
その向こうに、
確かに“時代の裂け目”が見えた。
──次は、京だ。
私は馬を走らせた。
北条の滅びの先に、
江戸の始まりがあり、
そのさらに先に──
天下の再編が待っている。




