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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第6話 名のない朝

 庵の夜は深く、静かだった。

 外では風が木々を揺らし、霧が枝葉にまとわりついている。

 だが、庵の中は行灯の淡い光に包まれ、まるで別世界のようだった。


 私は黒い布を膝の上に置き、しばらくそれを見つめていた。

 僧が差し出したその布は、ただの切れ端にすぎぬはずなのに、

 手に取ると妙な重みを感じた。


 ──次の名。


 僧の言葉が胸の奥で反芻される。

 惟任日向守としての死を偽装したとはいえ、

 私はまだ“死んだ名”を抱えたままだ。

 それが、私の足を重くしている。


「眠れぬか」


 僧の声がした。

 私は顔を上げた。

 僧は火のそばに座り、鉄瓶の湯気を眺めていた。


「……少し、考え事をしておりました」


「名のことか」


 私は驚いたが、否定はしなかった。


「名を捨てた者は、必ずそこに行き着く。

 過去を捨てるのではなく、過去を抱えたまま別の名で生きること。

 それが、影としての生き方よ」


「影として……」


「そうだ。

 影は光に寄り添いながら、光とは別の道を歩む。

 おぬしのように、死んだ名を背負った者には、影の道がよく似合う」


 僧の言葉は、静かに胸に染み込んでいった。


 私はふと、庵の外に目を向けた。

 霧の向こうで、犬の吠え声が遠く響いた。

 まだ追手は諦めていない。


「……あれほど探しているのに、なぜ庵に踏み込まぬのでしょう」


 僧は火を見つめたまま答えた。


「この山には、踏み込んではならぬ場所がある。

 古くからの掟よ。

 俗世の者は、ここを避ける」


「理由は」


「知らぬ方がよい」


 僧の声は穏やかだったが、その奥に何か深いものがあった。

 私はそれ以上問わなかった。


 僧は湯を注ぎ、私の前に置いた。


「飲め。

 体を温めよ。

 夜明け前が一番冷える」


 私は湯を口に含んだ。

 温かさが喉を通り、胸の奥に広がっていく。

 疲労が少しずつ溶けていくようだった。


「おぬし、これからどうするつもりだ」


 僧の問いに、私は答えられなかった。

 惟任日向守としての道は、すでに閉ざされた。

 光秀としての名も、もう使えぬ。


「……わかりません。

 ただ、生き延びねばならぬとは思っております」


「生き延びるだけでは足りぬ。

 生きる理由を持て。

 名とは、そのためにある」


 僧の言葉は、静かだが重かった。


「おぬしには、まだ役目がある。

 死んだ名では果たせぬ役目がな」


「役目……」


「そうだ。

 この国は、これから大きく揺れる。

 その揺れを見届ける者が必要だ。

 光の下に立つ者ではなく、影から支える者が」


 私は息を呑んだ。

 僧は私の目をまっすぐに見つめていた。


「おぬしは、影として生きる器を持っておる。

 それは、死んだ名を捨てた者だけが持つ器だ」


 その言葉は、胸の奥に深く響いた。


 庵の外がわずかに明るくなり始めた。

 夜明けが近い。

 霧が薄れ、木々の輪郭が浮かび上がる。


「夜が明ける。

 おぬしはここを出ねばならぬ」


 僧は立ち上がり、庵の戸を開けた。

 冷たい朝の空気が流れ込む。


「追手はまだ山中におる。

 だが、夜明けとともに動きが鈍る。

 今なら抜けられよう」


 私は黒い布を握りしめ、立ち上がった。


「……あなたは、私が何者かを知っているのですか」


 僧は微笑んだ。


「名を捨てた者に、名は不要よ。

 だが──」


 僧は私の胸元を指差した。


「おぬしの中にある“影”は、いずれ名を得る。

 それが何であるかは……おぬし自身が決めることだ」


 私は深く頭を下げた。


「……恩、忘れませぬ」


「忘れてよい。

 影は、誰にも知られずに歩むものだ」


 私は庵を出た。

 朝の霧が薄れ、比叡山の影が静かに広がっている。


 黒い布を懐にしまい、私は山道を歩き出した。


 ──次の名。


 その言葉が、朝の冷気の中で静かに響いていた。


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