第57話 秀吉の影
北条氏政の最期から五日。
小田原の空気は、まだ死の匂いを残していた。
だが──
その静けさの裏で、別の影が動き始めていた。
豊臣の影だ。
私は城下の外れにある寺の一室で、
北条家臣団の再編の準備を進めていた。
そこへ、密偵が駆け込んできた。
「天海様……!
豊臣方の諜者が、あなたの動きを探っております!」
私は手を止めた。
「来たか」
密偵は息を切らしながら続けた。
「“徳川が北条残党を吸収している”という噂が、
秀吉の耳に入ったようです」
私は静かに立ち上がった。
「ならば、こちらから会いに行こう」
密偵は目を見開いた。
「危険です!」
「危険だからこそ、先手を取る」
私は僧衣の袖を整え、
寺を出た。
冬の風が、僧衣を鋭く揺らす。
城下の裏通りに入ると、
すぐに気配を感じた。
──見られている。
私は立ち止まり、
静かに言った。
「出てこい」
路地の影から、
一人の男が姿を現した。
黒い羽織、鋭い目。
豊臣の諜者に特有の“匂い”があった。
「……南光坊天海殿、であったな」
男は薄く笑った。
「北条の亡骸の中で、
何をしておられる?」
私は微動だにせず答えた。
「死者を弔っているだけだ」
男は鼻で笑った。
「弔いにしては、
ずいぶんと多くの者を集めているようだな」
──探りに来たか。
私は僧衣の袖を揺らし、
静かに言った。
「北条の者たちは、
主君を失い、行き場を失った。
私は僧として、彼らの心を支えているだけだ」
男は一歩近づいた。
「だが、徳川殿のもとへ向かう者がいると聞く。
それは“弔い”ではあるまい」
私は目を細めた。
「豊臣殿下は、
北条の民を助けると約した。
ならば、彼らがどこへ行こうと自由であろう」
男の笑みが消えた。
「……口が回る僧だな」
「僧は言葉で人を救うものだ」
男はしばらく私を見つめ、
やがて低く言った。
「天海殿。
あなたは“何者”だ?」
その問いは、
胸の奥を鋭く刺した。
光秀としての罪が疼く。
宗易としての迷いが揺れる。
だが──
天海としての答えは、すでに決まっていた。
「私は影だ。
誰のものでもない。
ただ、死者の魂を弔う者だ」
男は目を細めた。
「……影、か」
私は続けた。
「豊臣殿下が天下を治めるなら、
死者の魂もまた治めねばならぬ。
私はそのために動いているだけだ」
男は沈黙した。
その沈黙は、
私の言葉を測っている沈黙だった。
やがて、男はふっと笑った。
「なるほど。
僧というのは便利なものだな」
「便利だからこそ、僧は僧でいられる」
男は背を向けた。
「天海殿。
あなたの動き、しばらく見させてもらう」
その言葉は、
脅しではなく“宣告”だった。
男が去ると、
冬の風が路地を吹き抜けた。
私は僧衣の裾を握りしめた。
──危険は増した。
だが、
天海としての使命は揺らがない。
北条の魂を拾い、
徳川の未来へ繋ぐ。
そのためには、
秀吉の影を欺き続けねばならない。
私は空を見上げた。
冬の雲の向こうに、
かすかな光が差していた。
──次は、徳川へ帰る番だ。




