表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒衣の孤影  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

53/156

第53話 降伏

 その朝、小田原の空は異様なほど静かだった。


 風が止み、

 鳥の声もなく、

 ただ、遠くで太鼓の低い響きだけが続いている。


 ──秀吉軍、前進。


 その報せが城内に届いた瞬間、

 空気が変わった。


 兵たちは息を呑み、

 家臣たちは互いの顔を見合わせ、

 誰もが悟った。


 今日が“終わりの日”だと。


 私は城内の回廊を歩き、

 氏政の居室へ向かった。


 襖の前には、

 北条の古参家臣たちが沈黙のまま立ち尽くしていた。


「天海様……」


 誰かが私を見た。

 その目は、すでに涙を含んでいる。


「氏政様は……」


「わかっています」


 私は襖を開けた。


 中には、

 北条氏政が一人、静かに座していた。


 その背は、

 昨日よりも小さく見えた。


「……来たか、天海」


 氏政は振り返らずに言った。


「秀吉の使者が来た。

 “降れば命は助ける”とな」


 私は静かに座った。


「氏政様は……どうされますか」


 氏政はゆっくりと振り返った。


 その目には、

 恐れも怒りもなく、

 ただ深い静けさだけがあった。


「天海よ。

 わしは……降る」


 その言葉は、

 武家の誇りを捨てた男の、

 最後の覚悟だった。


 私は息を呑んだ。


「氏政様……」


「戦えば、民が死ぬ。

 家臣が死ぬ。

 北条の魂が絶える。

 ならば、わしは恥を受けよう」


 氏政は立ち上がり、

 窓の外の包囲された城下を見下ろした。


「天海よ。

 北条は、わしの代で終わる。

 だが──

 北条の魂は、そなたが繋げ」


 私は深く頭を下げた。


「必ず」


 その時、

 城内に大きな鐘の音が響いた。


 ──降伏の合図。


 兵たちの叫びが遠くで上がり、

 城下の民が泣き崩れる声が聞こえた。


 氏政は静かに言った。


「行くぞ」


 私は氏政の後を歩いた。


 城門へ向かう道は、

 兵と民で埋め尽くされていた。


 誰もが泣き、

 誰もが叫び、

 誰もが北条の終わりを悟っていた。


 その中を、

 氏政は一歩ずつ進んだ。


 背筋は伸びていた。

 武家としての最後の誇りを保つように。


 城門の前に、

 秀吉の使者が立っていた。


「北条氏政殿。

 豊臣殿下のお言葉を伝える」


 氏政は静かに頷いた。


「申せ」


「北条が降るならば、

 城兵と民の命は助ける。

 ただし──

 氏政殿は切腹をもって責を負うこと」


 周囲がざわめいた。


 氏政は微動だにしなかった。


「承知した」


 その声は、

 まるで風のように静かだった。


 私は胸が締めつけられた。


「氏政様……!」


 思わず声が漏れた。


 氏政は私を見た。


「天海よ。

 そなたは影だ。

 光秀でも、宗易でもない。

 北条の魂を拾う者だ」


 私は唇を噛んだ。


「……はい」


「ならば、泣くな」


 氏政は微笑んだ。


 その微笑みは、

 滅びゆく武家の、

 最後の美しさだった。


「北条は……そなたに託す」


 私は深く頭を下げた。


「必ず未来へ繋ぎます」


 氏政は頷き、

 使者に向き直った。


「北条氏政、ここに降る」


 その瞬間、

 小田原の空に、

 長い長い沈黙が落ちた。


 風が吹き、

 城下の旗が揺れ、

 兵たちの嗚咽が響いた。


 ──北条は滅んだ。


 だが、

 天海の胸には、

 燃えるような痛みと使命が残った。


 私は空を見上げた。


 冬の雲が流れ、

 その向こうに、

 かすかな光が差していた。


 ──北条の魂を拾うために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ