第52話 決断
憲秀が処断されて二日。
小田原城内の空気は、さらに重く沈んでいた。
兵たちの顔には疲労が刻まれ、
家臣たちは互いを疑い、
城下の民は不安に震えている。
──北条は、もはや戦う前から敗れている。
私は城内の回廊を歩きながら、
その現実を痛いほど感じていた。
そこへ、家臣が駆け寄ってきた。
「天海様!
氏政様が評定を開かれます。
どうか、お越しください」
私は頷き、
家臣に導かれて評定の間へ向かった。
襖が開くと、
家臣たちが円座に座り、
その中央に氏政がいた。
氏政の顔は憔悴し、
だがその目には、
まだ“武家の誇り”が残っていた。
「……天海よ。
そなたも聞け」
私は氏政の前に座った。
氏政は家臣たちを見渡し、
静かに口を開いた。
「秀吉の軍勢は、
すでに城を完全に包囲した。
兵の数は我らの十倍以上。
援軍は望めぬ」
家臣たちがざわめいた。
「氏政様、まだ戦えます!」
「籠城すれば、秀吉も疲れましょう!」
「いや、降伏すべきです!」
「戦えば皆死にます!」
声が乱れ、
評定の間は混乱に包まれた。
氏政は手を上げ、
静かにそれを制した。
「……わしは、迷っておる」
その言葉に、
家臣たちは息を呑んだ。
「戦えば、北条は滅ぶ。
降れば、北条は辱めを受ける。
どちらを選んでも、
北条は終わる」
氏政の声は震えていた。
「天海よ。
そなたはどう思う」
私は深く息を吸った。
「氏政様。
北条は……救えません」
家臣たちがざわめいた。
「だが──
北条の魂は救えます」
氏政は目を細めた。
「魂……」
「北条の忠義は、
徳川殿が必ず受け継ぎます。
北条の家臣たちを未来へ繋ぐことができます」
氏政はしばらく黙っていた。
やがて、
静かに口を開いた。
「……わしは、北条を守れなかった」
その声は、
老いた武将の最後の告白のようだった。
「父の代から続いた北条の地を……
わしの代で終わらせてしまう」
私は静かに言った。
「氏政様。
北条は滅びません。
城が落ちても、
家が絶えても、
北条の魂は生き続けます」
氏政は目を閉じた。
「……天海よ。
そなたは何者だ」
私は僧衣の袖を揺らし、
静かに答えた。
「私は影です。
光秀でも、宗易でもない。
北条の魂を拾い、
東国の未来へ繋ぐ者です」
氏政は深く息を吐いた。
「……ならば、頼む。
北条を……未来へ繋いでくれ」
私は深く頭を下げた。
「必ず」
その時、
評定の間の外から怒号が響いた。
「秀吉軍、さらに前進!」
「城下の包囲が狭まっております!」
家臣たちがざわめく。
氏政はゆっくりと立ち上がった。
「……わしは、決めた」
その声は、
静かだが揺るぎなかった。
「北条は……降る」
家臣たちが息を呑んだ。
「戦えば、民が死ぬ。
家臣が死ぬ。
北条の魂が絶える。
ならば、わしは……
北条の未来のために、恥を受けよう」
その言葉は、
武家の誇りを捨てた男の、
最後の覚悟だった。
私は静かに頭を下げた。
「氏政様。
その決断、必ず未来へ繋ぎます」
氏政は私を見つめ、
小さく頷いた。
「……頼むぞ、天海」
評定の間を出ると、
冬の風が廊下を吹き抜けた。
その風は、
北条の嘆きと、
北条の誇りを運んでいるようだった。
──北条の滅びは、決まった。
だが、
天海としての使命は、
ここからさらに重くなる。
私は僧衣の裾を揺らし、
包囲されゆく小田原の空を見上げた。
──北条の魂を拾うために。




