表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒衣の孤影  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

51/156

第51話 憲秀

 小田原城の包囲が始まって五日目。

 城内の空気は、もはや戦のそれではなかった。


 兵たちは疲れ切り、

 家臣たちは互いの顔色を伺い、

 氏政は深い沈黙の中に沈んでいる。


 ──北条は、外からではなく内から崩れる。


 江雪斎の言葉が、胸の奥で重く響いていた。


 その日の昼下がり、

 城内に突然、怒号が響いた。


「憲秀様が──!」


 私は僧衣の裾を揺らし、声の方へ向かった。


 廊下の先で、家臣たちが揉み合っている。

 その中心に、松田憲秀がいた。


 憲秀は衣を乱し、

 顔は蒼白で、

 その手には密書が握られていた。


「離せ! これは誤解だ!

 わしは北条のために──!」


「黙れ、憲秀!」


 家臣の一人が怒鳴った。


「秀吉の使者と通じていたこと、

 すでに証が上がっておる!」


 憲秀の顔が歪んだ。


「違う!

 わしは……わしは……!」


 その声は、

 裏切り者のものではなく、

 追い詰められた老人の叫びだった。


 私は一歩前に出た。


「憲秀殿」


 憲秀は私を見た。


「宗易……いや、天海か。

 お前まで、わしを疑うのか」


 私は静かに首を振った。


「疑うのではない。

 事実を問うているのです」


 憲秀は震える手で密書を握りしめた。


「これは……

 北条を守るための策だったのだ……

 秀吉に従うふりをして、

 北条を救う道を探っていた……!」


 家臣たちが怒号を上げた。


「嘘をつくな!」

「北条を売ったのだ!」

「氏政様を裏切ったのだ!」


 憲秀は膝をつき、

 その場に崩れ落ちた。


「わしは……

 わしは北条を守りたかった……

 ただ、それだけなのだ……」


 その声は、

 老いた武将の最後の叫びだった。


 そこへ、

 氏政が現れた。


 家臣たちは一斉に頭を下げた。


「……憲秀」


 氏政の声は低く、

 だが震えていた。


 憲秀は顔を上げた。


「氏政様……

 わしは……わしは……」


 氏政は目を閉じた。


「憲秀。

 お前の心がどこにあったか、

 わしにはもうわからぬ」


 憲秀の顔が苦痛に歪んだ。


「氏政様……!」


「だが──

 北条は、裏切りを許さぬ家だ」


 その言葉は、

 憲秀の命を告げる鐘の音だった。


 家臣たちが憲秀を押さえつける。


「待て!

 氏政様!

 わしは……わしは……!」


 憲秀の叫びは、

 城内に虚しく響いた。


 私は目を閉じた。


 ──北条は、外からではなく内から崩れる。


 江雪斎の言葉が、

 現実となっていく。


 憲秀は連れ去られ、

 その日のうちに処断された。


 夕刻、

 私は城の高台に立ち、

 沈む夕日を見つめていた。


 背後から声がした。


「天海殿」


 振り返ると、

 氏政が立っていた。


 その顔は、

 憲秀を失った痛みと、

 家中の崩壊を悟った絶望に満ちていた。


「……わしは、北条を守れぬ」


 私は静かに言った。


「氏政様。

 北条は滅びます。

 しかし──

 北条の魂は滅びません」


 氏政は目を閉じた。


「魂など……

 わしにはもう見えぬ」


「見えなくとも、残ります。

 北条の忠義は、

 必ず未来へ繋がります」


 氏政はしばらく黙っていた。


 やがて、

 夕日の中で小さく呟いた。


「……天海よ。

 北条を……頼む」


 私は深く頭を下げた。


「必ず」


 氏政は背を向け、

 静かに去っていった。


 残された夕日が、

 小田原城を赤く染めていた。


 ──北条の滅びは、もう止められない。


 だが、

 天海としての使命は、

 ここからさらに重くなる。


 私は僧衣の裾を揺らし、

 沈む夕日を見つめた。


 ──北条の魂を拾うために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ