第50話 氏政
秀吉軍の包囲が始まって三日。
小田原城下は、静けさと緊張が入り混じった奇妙な空気に包まれていた。
人々は声を潜め、
兵たちは疲れた目で空を見上げ、
遠くでは太鼓の音が響く。
──滅びの足音が近づいている。
私は城下の寺を出て、
北条家臣に案内されながら城内へ向かった。
「天海様。
氏政様が……お会いになると」
家臣の声は震えていた。
私は頷き、
小田原城の石段を登った。
かつて威容を誇った城は、
今はどこか沈んだ影を落としている。
廊下を進むと、
薄暗い一室の前で家臣が立ち止まった。
「こちらです」
襖が静かに開く。
中には、
北条氏政が座していた。
髪は乱れ、
目の下には深い影。
だが、その眼差しにはまだ“武家の誇り”が残っていた。
「……宗易か」
私は首を振った。
「宗易は死にました。
私は──天海です」
氏政はわずかに目を細めた。
「名を変えたか。
だが、目は変わらぬな」
私は氏政の前に座った。
「氏政様。
北条は……どう動かれるおつもりですか」
氏政はしばらく黙っていた。
その沈黙は、迷いと苦悩の重さを物語っていた。
「……戦うべきか、降るべきか。
わしには、もうわからぬ」
その声は、
かつての北条の名将のものではなかった。
私は静かに言った。
「秀吉は、北条を戦に誘い込むために罠を仕掛けています。
真田、上杉、そして……憲秀殿」
氏政の顔が歪んだ。
「憲秀……
あやつが裏切ったことは、わしも知っておる」
拳が震えていた。
「だが、家中は割れ、
わしの言葉はもう届かぬ。
北条は……すでに崩れておるのだ」
私は目を閉じた。
江雪斎の言葉が蘇る。
──北条は外からではなく、内から崩れる。
氏政は続けた。
「天海よ。
お前は徳川殿のもとへ行ったと聞く。
ならば問う。
北条は……救えるのか」
その問いは、
胸に深く突き刺さった。
私はゆっくりと首を振った。
「救えません。
しかし──
北条の魂は救えます」
氏政は息を呑んだ。
「魂……?」
「北条の忠義は、東国の柱となります。
徳川殿はそれを望んでおられます。
北条の家臣たちを、未来へ繋ぐことができます」
氏政はしばらく黙っていた。
やがて、
深く、深く息を吐いた。
「……わしは、北条を守れなかった」
その声は震えていた。
「父の代から続いた北条の地を……
わしの代で終わらせてしまう」
私は静かに言った。
「氏政様。
北条は滅びません。
城が落ちても、
家が絶えても、
北条の魂は生き続けます」
氏政は顔を上げた。
その目には、
わずかに光が戻っていた。
「……天海よ。
お前は何者だ」
私は僧衣の袖を揺らし、
静かに答えた。
「私は影です。
光秀でも、宗易でもない。
北条の魂を拾い、
東国の未来へ繋ぐ者です」
氏政はしばらく私を見つめ、
やがて小さく頷いた。
「……ならば、頼む。
北条を……未来へ繋いでくれ」
私は深く頭を下げた。
「必ず」
部屋を出ると、
冬の風が廊下を吹き抜けた。
その風は、
まるで北条の嘆きのようだった。
──北条の滅びは、もう止められない。
だが、
天海としての使命は、
ここからさらに重くなる。
私は僧衣の裾を揺らし、
包囲されゆく小田原の空を見上げた。
──北条の魂を拾うために。




