第5話 影を宿す者
庵の中は、外の冷気が嘘のように静かだった。
行灯の淡い光が土壁を照らし、揺れる影が室内にゆっくりと広がっていく。
私は湯を口に含み、ようやく自分の呼吸が落ち着いていくのを感じた。
僧は私の向かいに座り、火にかけた鉄瓶の音に耳を傾けていた。
その姿は、まるで山そのものの静けさを体現しているようだった。
「追手は……通り過ぎたようですな」
僧が静かに言った。
私は頷いたが、胸の奥の緊張はまだ解けない。
「助けていただき、感謝いたします」
「助けたわけではない。
ただ、ここに来た者を追い返す理由もないだけよ」
僧は淡々と言った。
だが、その声にはどこか温かさがあった。
「名は聞かぬ。
名を捨てた者に、名を問うのは無粋というものだ」
私は息を呑んだ。
この僧は、私が“死んだ者”であることを見抜いている。
「……何故、そう思われる」
「おぬしの目だ。
生きる者の目ではない。
死んだ者が、なお歩こうとする目をしておる」
その言葉は、胸の奥に深く刺さった。
惟任日向守としての死を偽装したとはいえ、
私は確かに“死んだ者”だった。
僧は湯を注ぎながら続けた。
「この山には、そういう者が時折やって来る。
名を捨て、過去を捨て、影として生きようとする者がな」
「……影として」
「そうだ。
影は、光がある限り消えぬ。
だが、光の下には立てぬ。
おぬしも、そういう道を選んだのであろう」
私は答えられなかった。
だが、否定する気にもなれなかった。
僧は私の沈黙を肯定と受け取ったのか、静かに笑った。
「影として生きる者には、影の道がある。
この山は、その入口にすぎぬ」
私は僧の顔を見つめた。
深い皺を刻んだその表情は、どこか達観しているように見えた。
「あなたは……何者なのです」
僧は少しだけ目を細めた。
「わしもまた、名を捨てた者よ。
俗世にいた頃の名など、もう覚えておらぬ」
その言葉に、胸がざわついた。
名を捨てた者──
それは、私がこれから歩む道そのものだ。
「おぬしは、まだ名を捨てきれておらぬようだな」
「……どういう意味です」
「心がまだ、惟任日向守に縛られておる。
死んだ名を抱えたままでは、影にはなれぬ」
私は言葉を失った。
僧の言葉は、私の内側を正確に射抜いていた。
惟任日向守としての誇り、理想、罪──
それらが胸の奥に絡みつき、私を縛っている。
「名を捨てるとは、過去を捨てることではない。
過去を抱えたまま、別の名で生きることだ」
僧の声は静かだったが、深い力があった。
「おぬしには、まだ“次の名”がない。
だから苦しいのだ」
次の名──
その言葉が胸に残った。
僧は立ち上がり、庵の奥から黒い布を取り出した。
僧衣の一部だろうか。
深い黒が、行灯の光を吸い込むように沈んでいる。
「これは、わしが俗世を捨てたときにまとった衣の切れ端だ。
影として生きる者には、黒がよく似合う」
僧はそれを私の前に置いた。
「持っていけ。
おぬしが次の名を得るとき、役に立つ」
私は黒い布を手に取った。
その感触は驚くほど軽く、しかし深い重みを感じさせた。
──黒衣。
その言葉が胸に浮かんだ。
僧は私の表情を見て、静かに頷いた。
「影は黒をまとう。
黒は、光を拒むのではない。
光を抱え込む色だ」
その言葉は、まるで未来を示すようだった。
庵の外では、まだ遠くで犬の吠え声が響いていた。
だが、私は不思議と恐怖を感じなかった。
惟任日向守としての死を背負いながら、
私は確かに“次の名”へ向かって歩き始めている。
黒い布を握りしめ、私は静かに息を吐いた。
──影として生きる道は、ここから始まる。




