第49話 包囲の始まり
小田原城下に入って三日目の朝、
私は城下の外れにある寺の一室で目を覚ました。
外はまだ薄暗く、
冬の風が障子を揺らしている。
──今日、何かが動く。
胸の奥で、静かな確信があった。
僧衣を整え、外へ出ると、
城下の空気が昨日までとは違っていた。
人々は空を見上げ、
兵たちは慌ただしく走り、
遠くからは地鳴りのような音が聞こえる。
私は寺の門を出て、
城下の高台へ向かった。
そこから見えた光景に、
息を呑んだ。
──山が動いている。
いや、山ではない。
秀吉の大軍だ。
黒い波のように、
山の斜面を埋め尽くし、
小田原へ向かって押し寄せてくる。
兵の数は、
北条の十倍、いや二十倍はあるだろう。
その圧倒的な“質量”が、
冬の空気を震わせていた。
「……始まったか」
背後から声がした。
振り返ると、
昨日会った北条家臣が立っていた。
その顔は蒼白で、
だが目だけは強い光を宿している。
「秀吉の軍が……」
「はい。
今朝方、三方から進軍を開始したとの報せが入りました。
城は……包囲されます」
私は空を見上げた。
小田原城の天守が、
冬の曇天の下で静かに佇んでいる。
その姿は、
まるで滅びを悟った巨人のようだった。
「氏政様は……どうされる」
家臣は苦い表情を浮かべた。
「まだ迷っておられます。
戦うべきか、降るべきか。
家中は割れ、
憲秀様は……」
「秀吉と通じているのだな」
家臣は顔を伏せた。
「はい。
皆、知っております。
だが、誰も止められぬのです」
私は目を閉じた。
江雪斎の言葉が蘇る。
──北条は外からではなく、内から崩れる。
家臣は続けた。
「天海様。
北条は……どうなるのでしょう」
私は僧衣の袖を握りしめた。
「滅びます。
だが──
北条の魂は滅びません」
家臣は震える声で言った。
「……本当に、そう思われますか」
「思うのではない。
そう“する”のだ」
家臣は目を見開いた。
私は続けた。
「北条の忠義は、
徳川殿が必ず受け継ぐ。
そして私が、
その魂を拾い集める」
家臣は深く頭を下げた。
「……天海様。
どうか、どうか……」
私は城下を見下ろした。
秀吉の軍勢は、
すでに小田原を取り囲むように布陣を始めている。
黒い波が、
じわじわと城を締め上げていく。
その光景は、
まるで巨大な蛇が獲物を締め上げるようだった。
私は静かに言った。
「北条の滅びは、今日から始まる。
だが──
北条の未来は、今日から作られる」
家臣は涙をこらえるように顔を上げた。
「天海様……
あなたは、何者なのですか」
私は僧衣の袖を揺らし、
冬の風を受けながら答えた。
「私は、影だ。
光秀でも、宗易でもない。
北条の魂を拾い、
東国の未来を繋ぐ影だ」
家臣は深く頭を下げた。
「……わかりました。
我らは、あなたに従います」
私は頷き、
小田原城を見上げた。
天守の上に、
冬の雲が重く垂れ込めている。
──北条の最期が近い。
だが、
天海としての使命は、
ここからが本番だ。
私は僧衣の裾を揺らし、
包囲されゆく小田原へ向かって歩き出した。
──北条の魂を拾うために。




