第48話 小田原へ
家康からの命を受けた翌朝、
私は駿府を発った。
冬の空は薄く曇り、
風は冷たく、
僧衣の裾を鋭く揺らした。
──小田原へ向かう。
その事実だけで、胸の奥が重く沈む。
北条の滅びを見届けるために行くのではない。
北条の“魂”を拾い集めるために行くのだ。
だが、光秀としての記憶が、
胸の奥で静かに疼いた。
私は馬を進めながら、
小田原へ続く街道を見つめた。
かつて北条の兵が行き交い、
商人が賑わい、
子どもたちが走り回っていた道。
今は、
人影がまばらで、
風だけが吹き抜けている。
途中の村で、
老人が私の僧衣を見て声をかけてきた。
「小田原へ行かれるのか」
「はい」
「……北条は、もう終わりだ」
老人の声は震えていた。
「秀吉の軍が動いたと聞く。
小田原は包囲される。
誰も助からぬ」
私は静かに答えた。
「滅びるのは城であって、
北条の魂ではありません」
老人は私を見つめ、
やがて深く頭を下げた。
「……どうか、北条を頼む」
私は頷き、馬を進めた。
やがて、
小田原の外郭が見えてきた。
遠くにそびえる石垣。
その上に立つ兵たちの影。
だが、その姿には覇気がない。
小田原はすでに“戦う前から敗れている”ように見えた。
城下に入ると、
かつての賑わいは消え、
人々は不安げに空を見上げていた。
私は僧衣の袖を整え、
城下の奥へ進んだ。
すると、
路地の陰から声がした。
「……宗易殿か」
私は足を止めた。
影から現れたのは、
北条の古参の家臣だった。
だが、私は首を振った。
「宗易は死にました。
私は──天海です」
家臣は目を見開いた。
「天海……?
徳川殿のもとへ行かれたと聞きましたが……」
「北条の魂を拾いに来ました」
家臣は震える声で言った。
「氏政様は……迷っておられます。
秀吉に従うべきか、戦うべきか。
家中は割れ、
憲秀様は……」
「裏切ったのですね」
家臣は顔を伏せた。
「はい。
秀吉の使者と密かに通じていると……
皆、知っております」
私は目を閉じた。
江雪斎の言葉が蘇る。
──北条は外からではなく、内から崩れる。
家臣は続けた。
「江雪斎様は……
もう小田原にはおられません。
北条のために、
静かに死を選ばれました」
胸が締めつけられた。
江雪斎の静かな眼差しが、
焚き火の炎の向こうに浮かぶ。
「天海様。
北条は……どうなるのでしょう」
私は僧衣の袖を握りしめた。
「滅びます。
だが──
北条の魂は滅びません」
家臣は涙をこらえるように顔を上げた。
「……どうか、北条を……」
「任せなさい」
私は静かに言った。
「北条の忠義は、
必ず東国の未来に繋ぎます」
家臣は深く頭を下げた。
「天海様……
どうか、どうか……」
私は城下を見上げた。
小田原城の天守が、
冬の空の下で静かに佇んでいる。
その姿は、
まるで滅びを悟った巨人のようだった。
──北条の最期が近い。
だが、
天海としての使命は、
ここから始まる。
私は僧衣の裾を揺らし、
小田原城へ向かって歩き出した。
──北条の魂を拾うために。




