第46話 江雪斎の影
北条家臣の残党を家康の庇護下に置いた翌朝、
私は駿府の寺院の一室で静かに座していた。
僧衣の布はまだ身体に馴染まない。
だが、光秀としての重さは確かに薄れていく。
天海という名が、ゆっくりと胸の奥に沈み込んでいく。
そこへ、家康の密偵が駆け込んできた。
「天海様。
江雪斎殿の所在が判明しました」
私は目を開けた。
「どこだ」
「箱根の山中にて、
北条の残された兵をまとめているとのことです」
胸がわずかに震えた。
江雪斎──
北条の知恵を支え続けた静かな柱。
北条が滅びゆく中で、
最後まで“理”を捨てなかった男。
「案内せよ」
「承知しました」
私は僧衣の袖を整え、
駿府を出た。
冬の山道は冷たく、
風が木々を揺らしている。
その音は、まるで北条の悲鳴のように聞こえた。
密偵に導かれ、
私は山中の小さな庵へ向かった。
庵の前には、
疲れ切った北条の兵が数名、焚き火を囲んでいた。
その中心に、
江雪斎が静かに座していた。
白い髭が風に揺れ、
その眼差しは、
かつて小田原で見た時と変わらぬ静けさを湛えていた。
「……宗易殿か」
江雪斎は私を見ると、
わずかに目を細めた。
私は首を振った。
「宗易は死にました。
私は──天海です」
江雪斎は微かに笑った。
「名を変えたか。
だが、目は変わらぬな」
私は江雪斎の前に座った。
「北条は……どう動くつもりですか」
江雪斎は焚き火を見つめたまま言った。
「動かぬ。
動けぬ。
北条はすでに、秀吉の掌の上だ」
私は拳を握った。
「氏政様は……」
「迷っておられる。
だが、迷いはもはや“選択”ではない。
秀吉は北条の外側だけでなく、
内側にも罠を仕掛けている」
江雪斎の声は静かだった。
「松田憲秀か」
「そうだ。
憲秀は、秀吉の影に飲まれた。
北条は外からではなく、内から崩れる」
私は息を呑んだ。
家康の言葉と同じだ。
「江雪斎殿。
北条は……救えぬのですか」
江雪斎はゆっくりと首を振った。
「救えぬ。
だが──
“滅び方”は選べる」
その言葉は、
家康が言ったものとまったく同じだった。
北条の知恵と、
徳川の知略が、
同じ結論に辿り着いている。
江雪斎は私を見た。
「天海殿。
あなたは北条を救うために来たのか」
「……救えぬと知りながら、
それでも救いたいと思って来ました」
江雪斎は目を閉じた。
「その心は、光秀殿のものだな」
私は息を呑んだ。
「……気づいていたのですか」
「宗易殿の言葉の端々に、
“戦を知る者の影”があった。
そして、あなたの目は──
かつて本能寺で見た、あの炎の色をしていた」
江雪斎は静かに言った。
「光秀殿。
いや、天海殿。
北条は滅びる。
だが、北条の魂は滅びぬ」
私は深く頭を下げた。
「その魂を……私が繋ぎます」
「頼む」
江雪斎は焚き火の炎を見つめた。
「北条の兵たちは、
徳川殿のもとへ向かわせる。
彼らの忠義は、東国の柱となる」
私は頷いた。
「江雪斎殿は……どうされるのです」
江雪斎は静かに笑った。
「私は北条の者だ。
北条と共に、ここで終わる」
私は言葉を失った。
「天海殿。
あなたは、北条を救えぬ。
だが──
北条の未来を救うことはできる」
江雪斎は最後に言った。
「東国を頼む」
私は深く頭を下げた。
「必ず」
庵を出ると、
冬の風が僧衣を揺らした。
江雪斎の影が、
静かに山に溶けていく。
──北条滅亡の足音が、確実に近づいていた。




