第45話 北条の影を追う
天海として名を与えられた朝、
私はまだその名の重さを量りかねていた。
光秀の記憶は消えない。
宗易としての迷いも残っている。
だが、僧衣の布が肩に落ちるたび、
そのすべてが遠ざかっていくのを感じた。
家康の密命は三つ。
そのうちの一つ──
「北条家臣たちの行き場を作れ」
これが最初に動き出すことになった。
離れを出ると、
若い密偵が深く頭を下げた。
「天海様。
北条家臣の一部が、駿府近くに潜伏しているとの報せが入りました」
私は足を止めた。
「誰だ」
「大道寺政繁の残党と、
江雪斎殿に連なる者たちです」
胸がわずかに震えた。
政繁──
北条のために戦い続けた男。
江雪斎──
北条の知恵を支え続けた静かな柱。
彼らの影が、まだ東国に残っている。
「案内せよ」
「承知しました」
密偵に導かれ、
私は駿府城下を抜け、
川沿いの小さな村へ向かった。
冬の風が吹き抜け、
川面が白く揺れている。
村の外れにある古い納屋の前で、
密偵が立ち止まった。
「この中に」
私は頷き、
静かに戸を開けた。
薄暗い納屋の中に、
数人の影が座っていた。
その中の一人が立ち上がった。
「……宗易殿か」
その声に、胸が締めつけられた。
政繁の側近だった男だ。
北条の兵たちをまとめ、
最後まで戦い抜いた者。
私は僧衣の袖を整え、
静かに言った。
「宗易は死んだ。
私は──天海だ」
男は目を見開いた。
「……天海?」
「徳川殿の命により、
北条の行く末を見届ける者だ」
男はしばらく黙っていたが、
やがて深く頭を下げた。
「北条は……もう、終わりなのか」
私は答えられなかった。
北条は滅びる。
だが、北条の魂は滅びない。
家康の言葉が胸に響く。
「北条は滅びる。
だが──北条の魂は、お前が守れ」
私は静かに言った。
「北条は、秀吉の罠に落ちた。
だが、北条の忠義は死んでいない。
その忠義を、東国の未来に繋ぐ」
男は拳を握りしめた。
「江雪斎様は……」
私は目を閉じた。
「江雪斎殿は、北条のために死ぬ覚悟を決めている。
だが、その意志は私が継ぐ」
男は震える声で言った。
「宗易殿……いや、天海様。
北条は……救えぬのですか」
私はゆっくりと首を振った。
「救えぬ。
だが、滅び方は選べる」
男は涙をこらえるように顔を伏せた。
「我らは……どうすれば」
「家康殿のもとへ来い。
北条の忠義を、東国の柱に変えるのだ」
男は顔を上げた。
「徳川に……仕えるのか」
「北条のためにだ。
北条の魂を守るために、
徳川の力を使う」
男は深く頭を下げた。
「……わかりました。
我らの忠義、天海様に預けます」
私は頷いた。
「北条の魂は、まだ死んでいない。
私が必ず繋ぐ」
納屋を出ると、
冬の風が僧衣を揺らした。
光秀としての罪も、
宗易としての迷いも、
すべてこの風に溶けていく。
天海としての最初の一歩が、
静かに踏み出された。
──北条の影を拾い集める旅が始まる。




