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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第44話 秀吉の影

 僧衣を纏ったまま、私はしばらく部屋に座り続けていた。

 肩に落ちた布の重みは、光秀という名を押し沈め、

 天海という新しい影を形づくっていく。


 だが、心の奥にはまだ、

 光秀の記憶が微かに残っていた。


 襖の外に気配がした。


「入れ」


 襖が開き、家康が姿を見せた。

 昨夜よりもさらに静かな顔をしている。


「天海よ。立て」


 私は立ち上がり、深く頭を下げた。

 その動作は自然で、

 まるで長く僧として生きてきたかのようだった。


 家康は私を見つめ、

 ゆっくりと口を開いた。


「まずは、秀吉の影を知れ」


 私は息を呑んだ。


「北条を滅ぼすのは、氏政の愚かさではない。

 秀吉が仕掛けた“計略”だ」


「……計略」


「そうだ」


 家康は灯りのそばに座り、

 紙を一枚広げた。


 そこには、

 北条領と関東一帯の地図が描かれている。


「秀吉は、北条を戦に誘い込むために、

 いくつもの罠を仕掛けている」


 家康は地図の一点を指した。


「まず、真田を使った。

 北条の沼田領を揺さぶり、

 氏政を怒らせるよう仕向けた」


 次に別の地点を指す。


「次に、上杉を動かした。

 北条の北を騒がせ、

 氏政の判断を乱すためだ」


 そして、家康は地図の中央──小田原を指した。


「最後に、北条の家中に“火種”を置いた。

 松田憲秀だ」


 私は目を細めた。


「憲秀……」


「秀吉は、北条の内部に“裏切りの芽”を植えた。

 北条は外からではなく、内側から崩れる」


 家康の声は静かだったが、

 その奥には深い怒りがあった。


「天海よ。

 秀吉は戦を仕掛ける前に、

 すでに勝っているのだ」


 私は拳を握った。


「北条は……救えぬのですか」


「救えぬ。

 だが──

 “滅び方”は選べる」


 家康は私を見た。


「北条が完全に滅びれば、

 東国は秀吉のものになる。

 だが、北条の意志を継ぐ者がいれば、

 東国は守られる」


 私は息を呑んだ。


「そのために、私を……」


「そうだ」


 家康は頷いた。


「天海。

 お前は北条を救うことはできぬ。

 だが、北条の“魂”を救うことはできる」


 私は静かに目を閉じた。


 政繁の顔が浮かぶ。

 江雪斎の静かな眼差しが浮かぶ。

 北条の兵たちの、不安に揺れる瞳が浮かぶ。


 ──救えなかった。


 だが、

 まだ終わってはいない。


「……私は、何をすればよいのです」


 家康は立ち上がり、

 私の前に歩み寄った。


「天海よ。

 お前の務めは三つだ」


 家康は指を三本立てた。


「一つ。

 秀吉の影を暴き、

 その手を東国に伸ばさせぬこと」


「二つ。

 北条の家臣たちの“行き場”を作ること。

 彼らの忠義は、東国の宝だ」


「三つ。

 私の目となり、耳となり、

 東国の未来を見定めること」


 私は深く頭を下げた。


「承知しました」


 家康は満足げに頷いた。


「天海。

 お前は光秀ではない。

 宗易でもない。

 今日からは、

 “徳川の影”として生きよ」


 私は静かに息を吸った。


 光秀の罪も、

 宗易の迷いも、

 すべてこの僧衣の下に沈んでいく。


 家康は最後に言った。


「北条は滅びる。

 だが──

 北条の魂は、お前が守れ」


 私は深く頭を下げた。


「……必ず」


 家康は背を向け、

 襖の向こうへ消えた。


 残された部屋に、

 僧衣の布がわずかに揺れた。


 ──天海としての最初の使命が始まる。


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