表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒衣の孤影  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/156

第43話 天海

 夜明け前の駿府は、まだ深い藍に沈んでいた。

 離れの部屋の障子がわずかに白み始め、

 私は静かに目を開けた。


 ──光秀としての最後の朝だ。


 胸の奥に、重い石のような静けさがあった。

 恐れではない。

 迷いでもない。

 ただ、長い旅路の終わりに立った者だけが抱く、

 深い諦観と覚悟。


 襖の外に気配がした。


「入れ」


 襖が開き、若い密偵が深く頭を下げた。


「お支度を」


 私は頷き、

 用意された黒い僧衣に袖を通した。


 布は冷たく、

 だが肩に落ちた瞬間、

 光秀という名が少し遠ざかった気がした。


 密偵に導かれ、

 私は駿府城の奥へ進んだ。


 廊下は静かで、

 灯りは最小限。

 まるで儀式のために整えられた道のようだった。


 やがて、昨夜と同じ部屋の前に着いた。


 密偵が襖を開ける。


 中には、

 灯りが一つだけ置かれた静かな空間があった。


 その奥に、

 徳川家康が座していた。


「来たか」


 家康の声は低く、

 だが昨夜よりも深い響きを持っていた。


 私は膝をつき、深く頭を下げた。


「光秀として、最後の挨拶を」


 家康の言葉に、

 胸がわずかに震えた。


 私はゆっくりと顔を上げた。


「明智光秀──

 ここにて、死にます」


 その言葉を口にした瞬間、

 胸の奥にあった重い石が、

 静かに落ちていくのを感じた。


 家康は頷いた。


「よい。

 では、名を捨てた者に、新たな名を与えよう」


 家康は密偵に目配せした。


 密偵が剃刀を差し出す。


 家康はそれを受け取り、

 私の前に座った。


「光秀。

 いや──

 これから生まれる者よ」


 家康は剃刀を私の額に当てた。


 刃が冷たい。


 家康は静かに言った。


「お前は今日より、

 武家ではなく、

 浪人でもなく、

 ただ“東国を守る者”として生きよ」


 家康の手が動き、

 髪が一筋、静かに落ちた。


 その音は、

 まるで過去が剥がれ落ちる音のようだった。


 二筋、三筋──

 髪が落ちるたびに、

 光秀という名が遠ざかっていく。


 家康は剃刀を置き、

 私の前に僧衣を整えた。


「立て」


 私は立ち上がり、

 僧衣を正した。


 布の重みが肩に落ちる。


 その瞬間、

 光秀は完全に死んだ。


 家康は私を見つめ、

 静かに言った。


「今日より──

 お前の名は、南光坊天海である」


 その名は、

 深い井戸の底から響くように、

 静かで、重く、そして不可逆だった。


 私は深く頭を下げた。


「……南光坊天海、ここに」


 家康は満足げに頷いた。


「天海よ。

 お前の最初の務めは、

 北条を救うことではない」


 私は顔を上げた。


「では、何を」


「秀吉の影を断つことだ。

 北条を滅ぼすのは、氏政の愚かさではない。

 秀吉の“計略”だ」


 家康の声は低く、

 だが確信に満ちていた。


「天海。

 お前は、秀吉の影を暴き、

 東国を守るために動け」


 私は深く頷いた。


「承知しました」


 家康は立ち上がり、

 私の肩に手を置いた。


「光秀は死んだ。

 だが──

 天海は、これから東国を救う」


 その言葉は、

 新しい命を与える宣告のようだった。


 私は静かに目を閉じた。


 光秀の罪も、

 宗易の迷いも、

 すべてこの僧衣の下に沈んでいく。


 そして──

 天海が歩き始める。


 東国のために。

 北条のために。

 家康のために。


 そして、

 自分自身のために。


 私は目を開けた。


 ──影は、名を得た。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ