第42話 名を捨てる前夜
家康との密会を終え、
私は駿府城の奥にある離れへ案内された。
灯りは一つ。
畳は新しく、
壁には何も掛けられていない。
だが、静かすぎる。
外には、家康の密偵たちの気配があった。
足音はしない。
だが、空気がわずかに揺れる。
──監視ではない。
──護衛でもない。
これは、“見極め”だ。
私は部屋の中央に座り、
深く息を吐いた。
家康は言った。
「光秀。お前は名を捨てよ」
その言葉が、まだ胸の奥で響いている。
名を捨てるとは、
ただ偽名を変えることではない。
武家としての生を捨てること。
過去を捨てること。
罪を捨てること。
そして──
“明智光秀の死”を受け入れること。
私は目を閉じた。
本能寺の炎が、
脳裏に蘇る。
信長の叫び。
兵の怒号。
焦げた木の匂い。
そして──
自分の名が歴史から消えていく音。
あの夜から、
私はずっと“死者”として生きてきた。
宗易という名は、
死者が身につけた仮の皮にすぎない。
だが、家康はその皮を剥ぎ取った。
「光秀よ」
あの一言で、
私は再び“生者”に引き戻された。
だが、生者として戻る場所はない。
光秀として生きることはできない。
宗易として生きることもできない。
ならば──
私は何者になるのか。
その答えを探すように、
私は静かに目を開けた。
襖の向こうに気配があった。
「入れ」
襖が静かに開き、
先ほどの若い密偵が頭を下げた。
「宗易殿……いえ、
これからは、何とお呼びすればよいのでしょう」
私は答えられなかった。
名がない。
名を捨てた者には、呼び名がない。
若い密偵は続けた。
「徳川様より、
“明朝、僧形の支度を整えよ”との仰せです」
「僧形……」
「はい。
衣、数珠、剃刀……すべて用意してあります」
私はゆっくりと頷いた。
「わかった」
密偵は深く頭を下げ、
襖を閉めた。
部屋に再び静寂が戻る。
私は立ち上がり、
用意された僧衣を手に取った。
黒い布は冷たく、
だが触れた指先に、奇妙な安堵が走った。
──これは、武家の衣ではない。
刀を振るう者の衣ではない。
戦場に立つ者の衣ではない。
これは、
“影として生きる者”の衣だ。
私は鏡の前に座り、
剃刀を手に取った。
刃が灯りを反射し、
細い光を放つ。
髪を落とせば、
光秀は完全に死ぬ。
宗易も死ぬ。
残るのは──
名もなき影だけ。
私は剃刀を額に当てた。
その瞬間、
襖の向こうから声がした。
「宗易殿。
……いや、光秀殿」
私は手を止めた。
襖が静かに開き、
家康が立っていた。
灯りの影が家康の顔を半分だけ照らす。
「その髪を落とすのは、明日でよい」
家康は部屋に入り、
私の前に座った。
「光秀。
名を捨てるというのは、
生きる道を捨てるということだ」
家康の声は静かだった。
「お前は今日まで、
光秀として死に、
宗易として彷徨ってきた。
だが、明日からは違う」
家康は剃刀を取り、
そっと置いた。
「明日──
お前は“別の者”として生まれる」
私は家康を見た。
「その名は……」
「まだ言わぬ」
家康は首を振った。
「名は、死を受け入れた者にのみ与えられる。
今夜は、光秀として最後の夜を過ごせ」
家康は立ち上がり、
襖の前で振り返った。
「明日、お前は生まれ変わる」
襖が閉まる。
私は静かに息を吐いた。
光秀としての最後の夜。
宗易としての最後の夜。
そして、
名もなき影が生まれる前夜。
私は灯りを消し、
闇の中で目を閉じた。
──影は、形を変える。




