第41話 徳川領へ
小田原を離れた朝、空は薄い灰色に沈んでいた。
北条の城下はまだ眠っている。
私は振り返らず、ただ東へ向かう道を歩き始めた。
北条を救えなかった悔恨は、胸の奥で燻り続けている。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
北条を揺らした影──秀吉の策略を見抜くには、
もう一つの柱、徳川家康の動きを確かめる必要があった。
箱根を越え、三島を抜け、
私は駿河へ向かう街道を歩いた。
徳川領に入ると、空気が変わった。
兵の動きは整い、村々は静かで、
北条の混乱とは対照的に、
ここには“張り詰めた秩序”があった。
──家康は、すでに戦の準備をしている。
私はそう感じた。
夕刻、街道沿いの茶屋で湯を飲んでいると、
背後に気配を感じた。
足音は軽い。
殺気はない。
だが、隠す気もない。
「……尾けているつもりか」
私は湯飲みを置き、振り返らずに言った。
若い男の声が返ってきた。
「宗易殿。
お迎えに上がりました」
私はゆっくり振り返った。
黒い羽織を着た若い武士が立っていた。
腰の刀は鞘に収まり、手は柄に触れていない。
敵意はない。
「誰の差し金だ」
「徳川様です」
私は息を呑んだ。
「……家康が、私を?」
「はい。
宗易殿が駿府へ向かっていると聞き、
“必ず通すように”との仰せです」
家康が、私を呼んでいる。
その事実は、
胸の奥に冷たい波紋を広げた。
「案内せよ」
「承知しました」
若い武士は深く頭を下げ、
私を街道の脇道へ導いた。
夜の駿府城下は静かだった。
灯りは少なく、
兵の足音だけが規則正しく響く。
私は裏門へ案内された。
門番は私を見ると、無言で道を開けた。
──家康は、私が来ることを知っている。
その確信が強まる。
裏門を抜け、
庭を横切り、
奥まった屋敷へ通された。
若い武士が襖の前で立ち止まる。
「宗易殿。
こちらでお待ちです」
私は襖に手をかけた。
中には、
灯りが一つだけ置かれた静かな部屋があった。
その奥に、
徳川家康が座していた。
家康は私を見ると、
わずかに目を細めた。
「……久しいな」
その声は低く、
だが確かに“知っている者”に向けた声だった。
私は膝をつき、頭を下げた。
「宗易と申します」
家康は首を横に振った。
「宗易ではあるまい。
その声、その目……
忘れるものか」
家康は灯りの向こうから、
まっすぐ私を見つめた。
「──光秀よ」
私は息を呑んだ。
家康は続けた。
「お前が生きていることは、
とうに気づいていた。
だが、名を捨てて生きる者には、
名を問わぬのが礼というものだ」
家康の声には、
責めも怒りもなかった。
ただ、
“見抜いていた者の静けさ”だけがあった。
「光秀。
北条を救いたいか」
私は迷わず答えた。
「……はい」
家康は深く頷いた。
「ならば、秀吉の影を断たねばならぬ。
北条を滅ぼすのは、氏政の愚かさではない。
秀吉の仕掛けた“罠”だ」
私は拳を握った。
「どうすればよい」
家康は灯りの向こうで、
静かに言った。
「まず──
お前は“光秀”を捨てよ」
私は顔を上げた。
「名を……捨てる」
「そうだ。
武家の名では、秀吉の影に勝てぬ。
名を捨て、姿を変え、
影として生きよ」
家康の声は、
まるで未来を見通しているかのようだった。
「光秀。
お前は、僧となれ」
私は息を呑んだ。
家康は続けた。
「名を捨てた者にしか、
見えぬ景色がある。
お前はその道を歩け」
私は深く頭を下げた。
光秀としての人生は、
この夜、静かに揺らぎ始めた。
だが、まだ死んではいない。
名を捨てる覚悟も、
僧として生きる覚悟も、
この時点ではまだ揺れている。
家康は言った。
「明日、改めて話す。
今夜は……光秀として最後の夜を過ごせ」
私は静かに頷いた。
──影は、まだ名を持たない。




