第40話 東へ
箱根の峠から戻った翌朝、小田原城の空気は重かった。
葛山十兵衛は死んだ。
だが、北条家の揺れは止まらない。
廊下を歩くと、兵たちの声が耳に入る。
「氏政様は、また評定を延ばされたらしい……」
「松田殿が何か動いているとか……」
「江雪斎様が孤立している……」
誰もが不安を抱えていた。
葛山が残した“揺れ”は、北条家の内部に深く染み込んでいる。
私は大道寺政繁の屋敷を訪れた。
政繁は机に向かい、地図を広げていた。
その目は疲れていたが、まだ戦う意志を失ってはいない。
「宗易殿。
江雪斎殿がお呼びです。
“北条の未来と、宗易殿の行く先”について話があると」
「わかりました」
私は政繁に礼を言い、江雪斎の居室へ向かった。
襖を開けると、江雪斎は静かに座っていた。
机の上には、葛山の遺品から見つかった“名のない文”が置かれている。
だが、江雪斎はそれに触れようとしなかった。
「宗易殿。
来てくれましたか」
「お呼びと聞きました」
江雪斎は私を見つめ、ゆっくりと言った。
「宗易殿。
北条は、長く持ちません」
その言葉は、葛山の死よりも重く響いた。
「氏政様は迷い、
憲秀殿は外へ目を向け、
家中は割れ始めています。
葛山が狙った“揺れ”は、すでに北条の心臓に届いています」
江雪斎の声は静かだったが、
その奥には深い疲れがあった。
「宗易殿。
あなたは北条の家臣ではない。
だが、北条のために動いてくれた。
そのことに、私は深く感謝しています」
私は黙って聞いた。
「しかし──
あなたが北条に留まれば、
いずれ“巻き込まれる”でしょう」
「巻き込まれる……?」
「ええ。
北条の崩れに、です」
江雪斎は机の上の文に手を置いた。
「葛山を動かした“影”は、まだ生きています。
その影は、北条を揺らし続けるでしょう。
そして、あなたをも狙う」
「……」
「宗易殿。
あなたは、北条を離れなければならない」
その言葉は、
私の胸に重く落ちた。
「北条を……離れる」
「ええ。
あなたは“影”を追う者。
北条の中にいては、影を追えません。
むしろ、北条の崩れに足を取られるだけです」
江雪斎は深く息を吐いた。
「宗易殿。
あなたは東へ向かいなさい。
徳川の地へ。
“影”の正体を掴むために」
私はしばらく黙っていた。
北条を離れる──
その言葉は、思った以上に重かった。
私は北条の家臣ではない。
だが、政繁と共に戦い、
江雪斎と共に策を練り、
北条の未来を案じてきた。
それでも──
北条は、私の道ではない。
「……わかりました」
江雪斎はわずかに微笑んだ。
「宗易殿。
あなたは北条を救えなかったかもしれない。
だが──
東国を救えるかもしれない」
その言葉は、
葛山が死の間際に言った言葉と重なった。
“東国は変わる”
葛山は信じていた。
黒幕の未来を。
黒幕の言葉を。
私は江雪斎に深く頭を下げた。
「行ってきます」
屋敷を出ると、政繁が待っていた。
「宗易殿……
本当に行くのですか」
「ええ。
北条のためではなく、
東国のために」
政繁は静かに頷いた。
「宗易殿。
あなたの“目”は、北条を救えなかった。
だが……
東国を救えるかもしれない」
その言葉は、
江雪斎の言葉と同じだった。
私は城門へ向かった。
冬の風が吹き抜け、
空は薄い灰色に染まっている。
小田原の町を振り返ると、
兵たちが不安げに空を見上げていた。
葛山が残した“揺れ”は、
まだ町の空気に残っている。
私は歩き出した。
東へ。
徳川の地へ。
“影”の正体を掴むために。
葛山十兵衛。
お前を動かした“あの方”を、
必ず見つける。
──影は、東へ向かう。




