第4話 闇の庵
比叡山の斜面を登るにつれ、霧はさらに濃くなった。
白い靄が視界を覆い、木々の輪郭すら曖昧になる。
夜気は冷たく、汗で濡れた衣が肌に張りついた。
息を吸うたび、胸が焼けるように痛む。
──限界が近い。
そう悟りながらも、足を止めるわけにはいかなかった。
追手の足音は、もはや遠くない。
犬の吠え声が霧の向こうで跳ね、私の居場所を探り当てようとしている。
私は倒木に手をつき、荒い呼吸を整えようとした。
だが、肺が拒むように痙攣し、咳が漏れた。
その音が、夜の静寂に不気味に響く。
──しまった。
犬の吠え声が鋭く跳ね上がった。
敵がこちらへ向きを変えたのがわかる。
私は歯を食いしばり、再び山道を駆けた。
足元の土は湿り、滑りやすい。
何度も転びそうになりながら、木の根を掴んで体を支える。
左腕の傷が開き、温かい血が流れ落ちた。
その感触が、妙に生々しく感じられた。
──生き延びねばならぬ。
その思いだけが、私を前へ押し出していた。
名を捨てた以上、私はもう光秀ではない。
だが、死ぬわけにもいかぬ。
この国の行く末を見届けるまでは。
霧の向こうに、黒い影が揺れた。
人影かと思ったが、違う。
もっと静かで、もっと深い──闇そのもののような影。
私は足を止めた。
その影の奥に、何かがある。
耳を澄ませると、風に混じって微かな音が聞こえた。
木を叩くような、規則的な音。
人の気配だ。
私は慎重に近づいた。
霧が薄れ、古びた庵が姿を現した。
苔むした屋根、崩れかけた土壁。
だが、そこには確かに灯があった。
小さな行灯の光が、庵の隙間から漏れている。
──誰かがいる。
私は戸口の前で立ち止まった。
追手の足音は、まだ遠くない。
このまま山中を彷徨えば、いずれ捕まる。
だが、庵の中にいる者が敵か味方かもわからぬ。
迷っている暇はなかった。
私は戸を軽く叩いた。
「……誰ぞ」
低く、落ち着いた声が返ってきた。
僧の声だ。
「道に迷った旅の者にございます。少しの間、雨露をしのがせていただければ……」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
惟任日向守としての威厳ではなく、
名を捨てた者の静けさがそこにあった。
戸がわずかに開き、僧が姿を現した。
痩せた体に黒い衣。
深い皺を刻んだ顔は、闇の中でもはっきりと見えた。
僧は私を一瞥し、静かに言った。
「……入れ」
私は庵の中へ足を踏み入れた。
行灯の淡い光が、狭い室内を照らしている。
僧は私を座らせ、湯を沸かし始めた。
「この山に、追われる者が来るとは珍しい」
僧の声は穏やかだった。
だが、その目は鋭く、私の内側を見透かすようだった。
「名は……聞かぬ方がよいな」
私は息を呑んだ。
僧は続ける。
「名を捨てた者の顔を、わしは何度も見てきた。
その目の奥にある影は、隠せぬものよ」
──影。
その言葉が胸に刺さった。
僧は私の沈黙を肯定と受け取ったのか、湯を差し出しながら言った。
「ここで一息つけ。
外は……まだ騒がしい」
その瞬間、庵の外で犬の吠え声が響いた。
すぐ近くだ。
私は思わず立ち上がりかけたが、僧が手で制した。
「動くな。
闇は、おぬしを守る」
僧の声は静かだったが、不思議な力があった。
私は息を潜め、庵の壁越しに外の気配を探った。
足音が近づき、松明の光が庵の外を照らす。
影が揺れ、犬が吠え立てる。
だが、庵の前で足音は止まらなかった。
敵はそのまま通り過ぎていく。
私は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。
僧は静かに言った。
「……おぬしは、まだ死ねぬ。
影として生きる者には、影の道がある」
その言葉は、闇の中で微かな光となった。
私は湯を口に含み、静かに息を吐いた。
惟任日向守としての死を背負いながら、
まだ見ぬ“もう一つの名”へ向かう道が、
確かにここから始まっているように思えた。




