表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒衣の孤影  作者: 双鶴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/13

第4話 闇の庵

 比叡山の斜面を登るにつれ、霧はさらに濃くなった。

 白い靄が視界を覆い、木々の輪郭すら曖昧になる。

 夜気は冷たく、汗で濡れた衣が肌に張りついた。

 息を吸うたび、胸が焼けるように痛む。


 ──限界が近い。


 そう悟りながらも、足を止めるわけにはいかなかった。

 追手の足音は、もはや遠くない。

 犬の吠え声が霧の向こうで跳ね、私の居場所を探り当てようとしている。


 私は倒木に手をつき、荒い呼吸を整えようとした。

 だが、肺が拒むように痙攣し、咳が漏れた。

 その音が、夜の静寂に不気味に響く。


 ──しまった。


 犬の吠え声が鋭く跳ね上がった。

 敵がこちらへ向きを変えたのがわかる。

 私は歯を食いしばり、再び山道を駆けた。


 足元の土は湿り、滑りやすい。

 何度も転びそうになりながら、木の根を掴んで体を支える。

 左腕の傷が開き、温かい血が流れ落ちた。

 その感触が、妙に生々しく感じられた。


 ──生き延びねばならぬ。


 その思いだけが、私を前へ押し出していた。

 名を捨てた以上、私はもう光秀ではない。

 だが、死ぬわけにもいかぬ。

 この国の行く末を見届けるまでは。


 霧の向こうに、黒い影が揺れた。

 人影かと思ったが、違う。

 もっと静かで、もっと深い──闇そのもののような影。


 私は足を止めた。

 その影の奥に、何かがある。


 耳を澄ませると、風に混じって微かな音が聞こえた。

 木を叩くような、規則的な音。

 人の気配だ。


 私は慎重に近づいた。

 霧が薄れ、古びた庵が姿を現した。

 苔むした屋根、崩れかけた土壁。

 だが、そこには確かに灯があった。

 小さな行灯の光が、庵の隙間から漏れている。


 ──誰かがいる。


 私は戸口の前で立ち止まった。

 追手の足音は、まだ遠くない。

 このまま山中を彷徨えば、いずれ捕まる。

 だが、庵の中にいる者が敵か味方かもわからぬ。


 迷っている暇はなかった。

 私は戸を軽く叩いた。


「……誰ぞ」


 低く、落ち着いた声が返ってきた。

 僧の声だ。


「道に迷った旅の者にございます。少しの間、雨露をしのがせていただければ……」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 惟任日向守としての威厳ではなく、

 名を捨てた者の静けさがそこにあった。


 戸がわずかに開き、僧が姿を現した。

 痩せた体に黒い衣。

 深い皺を刻んだ顔は、闇の中でもはっきりと見えた。


 僧は私を一瞥し、静かに言った。


「……入れ」


 私は庵の中へ足を踏み入れた。

 行灯の淡い光が、狭い室内を照らしている。

 僧は私を座らせ、湯を沸かし始めた。


「この山に、追われる者が来るとは珍しい」


 僧の声は穏やかだった。

 だが、その目は鋭く、私の内側を見透かすようだった。


「名は……聞かぬ方がよいな」


 私は息を呑んだ。

 僧は続ける。


「名を捨てた者の顔を、わしは何度も見てきた。

 その目の奥にある影は、隠せぬものよ」


 ──影。


 その言葉が胸に刺さった。

 僧は私の沈黙を肯定と受け取ったのか、湯を差し出しながら言った。


「ここで一息つけ。

 外は……まだ騒がしい」


 その瞬間、庵の外で犬の吠え声が響いた。

 すぐ近くだ。

 私は思わず立ち上がりかけたが、僧が手で制した。


「動くな。

 闇は、おぬしを守る」


 僧の声は静かだったが、不思議な力があった。

 私は息を潜め、庵の壁越しに外の気配を探った。


 足音が近づき、松明の光が庵の外を照らす。

 影が揺れ、犬が吠え立てる。

 だが、庵の前で足音は止まらなかった。

 敵はそのまま通り過ぎていく。


 私は胸の奥で、何かがほどけるのを感じた。


 僧は静かに言った。


「……おぬしは、まだ死ねぬ。

 影として生きる者には、影の道がある」


 その言葉は、闇の中で微かな光となった。


 私は湯を口に含み、静かに息を吐いた。

 惟任日向守としての死を背負いながら、

 まだ見ぬ“もう一つの名”へ向かう道が、

 確かにここから始まっているように思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ