第39話 黒幕の影
箱根の峠に、ようやく静けさが戻りつつあった。
霧は薄れ、折れた槍と血の跡だけが、つい先ほどまでの戦を物語っている。
葛山十兵衛の亡骸は、黒い陣羽織のまま横たわっていた。
その顔には苦悶も恐怖もなく、ただ何かを信じ切った者の静けさだけが残っていた。
私はしばらくその顔を見つめていた。
葛山は最後まで“あの方”を信じていた。
名も明かされぬ影を。
「宗易殿」
背後から大道寺政繁が歩み寄ってきた。
手には、葛山の遺品が入った小さな袋がある。
「葛山の身につけていたものを調べました。
……奇妙なものが出てきました」
政繁は袋を差し出した。
私は受け取り、紐を解いた。
中には、一枚の紙が折り畳まれていた。
墨の匂いがまだ残っている。
私は紙を広げた。
──東国の荒れを利用し、北条を揺らせ。
──箱根を押さえよ。
──働きを見せよ、十兵衛。
署名はない。
だが、文の書きぶりは明らかに武家のもの。
しかも、ただの家臣ではない。
政繁が低く言った。
「……家康公の筆ではありません。
だが、家康公の名を“使える者”の筆です」
「徳川の重臣……」
「ええ。
しかも、葛山を“駒”として扱えるほどの立場の者です」
私は紙を見つめた。
葛山十兵衛は、
この文に従って動いていた。
北条を揺らし、
箱根を狙い、
東国を乱し、
そして──
私を戦場へ引きずり出した。
すべては、この“名のない文”のために。
政繁が続けた。
「宗易殿。
葛山は、ただの反乱者ではありませんでした。
だが……
駒として使われていたのも事実です」
私は葛山の亡骸を見下ろした。
葛山は強かった。
狂ってはいなかった。
むしろ、澄んだ目をしていた。
その男が、
“名も知らぬ影”のために死んだ。
政繁が静かに言った。
「宗易殿。
あなたは、葛山の背後にいる者を追うつもりなのですね」
「……まだ決めてはいません。
だが、この文を書いた者を知らねば、
葛山の死の意味がわからない」
政繁は頷いた。
「葛山は、あなたを“鍵”と見ていた。
背後の者も、同じように見ているでしょう」
私は紙を折り、懐にしまった。
葛山十兵衛。
お前は最後まで“あの方”を信じていた。
その信念は、愚かではなかった。
だが──
利用されていた。
私は葛山の亡骸に向かって静かに言った。
「お前を動かした“影”を、必ず見つける」
峠に冷たい風が吹き抜けた。
霧が完全に晴れ、空が薄い灰色を見せ始める。
政繁が言った。
「宗易殿。
江雪斎殿が、あなたに話があるそうです。
“影の正体”について、何か掴んだと」
「わかりました」
私は峠を離れ、山道を下り始めた。
葛山十兵衛は死んだ。
だが、葛山を動かした“影”はまだ生きている。
その影は、
北条を揺らし、
東国を乱し、
そして──
宗易を呼んでいる。
私は懐の文を握りしめた。
──影は、まだ姿を見せない。




