第38話 葛山十兵衛の最期
箱根山中は、朝から霧が濃かった。
木々の間を白い煙のような霧が流れ、
足元の落ち葉は湿って重い。
私は大道寺政繁と共に、
箱根の峠へ向かっていた。
「宗易殿。
葛山軍が峠を越えようとしている。
ここを抜かれれば、小田原は丸裸だ」
「ええ。
葛山は“北条の喉”を狙っています」
政繁は険しい顔で頷いた。
「葛山は、あなたを探すだろう」
「探すでしょう。
あの男は、戦と私を同じ場所に置いている」
峠に近づくにつれ、
鉄の匂いが強くなった。
血の匂いだ。
霧の向こうから、
叫び声と金属のぶつかる音が響いてくる。
「始まっている……!」
政繁が駆け出した。
私もその後を追う。
霧が晴れた瞬間、
視界に広がったのは──
黒い陣羽織の波だった。
葛山軍が峠を埋め尽くし、
北条軍と激しくぶつかっている。
槍が折れ、
盾が砕け、
兵が倒れ、
霧が血で赤く染まっていく。
その中心に、
葛山十兵衛がいた。
黒い陣羽織を翻し、
刀を抜き、
兵の間を縫うように動いている。
その動きは、
まるで霧そのものだった。
「宗易!」
葛山がこちらを見た。
戦場の喧騒の中でも、
その声だけははっきり届いた。
政繁が叫ぶ。
「宗易殿、下がれ!
あれはあなたを──」
「わかっています」
私は前へ出た。
葛山が兵を押しのけ、
まっすぐこちらへ歩いてくる。
刀の刃には血がついていない。
葛山は“斬るべき相手”をまだ斬っていないのだ。
「来たか、宗易」
「呼ばれたのでな」
葛山は笑った。
「お前は、俺の読み通りに動く」
「お前がそう動かしたのだ」
「違う。
お前は“そう動く男”だ。
だから俺は、お前を選んだ」
葛山は刀を構えた。
「宗易。
俺とお前は、どちらかが死ぬまで終わらぬ」
「そうだろうな」
葛山が踏み込んだ。
霧を裂くような速さだった。
私は刀で受け、
弾き、
踏み込む。
葛山の動きは鋭い。
だが、焦りがあった。
「宗易……
お前は……何者だ……!」
「名は関係ない」
「そうだ……名など……どうでもいい……」
葛山は笑い、
さらに踏み込んできた。
刀と刀がぶつかり、
火花が散る。
葛山の目は狂っていない。
むしろ澄んでいる。
その目に宿っているのは──
“信念”だった。
「宗易……
俺を動かしたのは……“あの方”だ……」
「誰だ」
「東国は……もうすぐ変わる……
止められぬ……」
葛山が大きく振りかぶった瞬間、
私は踏み込み、
葛山の懐へ入った。
葛山の目が見開かれる。
刹那、
私は葛山の胸元へ刀を突き立てた。
葛山の体が震え、
血が溢れた。
葛山は私の肩を掴み、
かすれた声で言った。
「宗易……
俺は……間違っていない……
“あの方”は……正しい……」
「その名を言え」
葛山は笑った。
「……言えぬ。
俺も……知らぬ……
だが……
あの方は……東国を……」
言葉が途切れた。
葛山十兵衛は、
霧の中で静かに崩れ落ちた。
その目は、
死の間際まで“信じていた”。
背後の黒幕を。
政繁が駆け寄ってきた。
「宗易殿……!」
私は葛山の亡骸を見下ろした。
葛山十兵衛。
北条を揺らし、
東国を乱し、
私を戦場へ引きずり出した男。
その男が、
最後まで名を明かさなかった“あの方”。
私は刀を収め、
霧の向こうを見つめた。
──影は、まだ終わらない。




