第37話 黒幕の名(前夜)
三島の戦いから二日後、小田原城は静まり返っていた。
兵の怒号も、重臣たちの議論もない。
だが、その静けさは平穏ではなく、
嵐の前のような重さを含んでいた。
私は城内の一角にある政繁の屋敷を訪れた。
葛山軍の動き、三島での衝突、
そして葛山が戦場で放った言葉──
それらを整理する必要があった。
政繁は机に向かい、地図を広げていた。
その目は疲れていたが、鋭さは失っていない。
「宗易殿。
三島での戦い……葛山は、あなたを狙っていたのですね」
「ええ。
あの男は、戦場でさえ私を探していた」
「……異様な執着だ」
政繁は地図の上に手を置いた。
「葛山は、あなたを“鍵”と見ている。
北条を揺らす鍵、
徳川の影を広げる鍵、
そして──
自分の戦を完成させる鍵だ」
私は黙って聞いた。
「宗易殿。
あなたは、葛山の背後にいる者を探しているのでしょう」
「ええ。
葛山は“あの方”と言った。
徳川の家臣であり、家康の名を使える者。
だが、名は明かさなかった」
政繁は深く息を吐いた。
「……その名を知る者が、城内に一人だけいます」
私は政繁を見た。
「江雪斎殿ですか」
「ええ。
あの方は、北条の内情だけでなく、
徳川の動きにも通じている。
あなたに話があると言っていました」
政繁の言葉を聞き、
私は江雪斎の居室へ向かった。
廊下は薄暗く、
障子越しに差し込む光が細い線を描いている。
静寂が耳に痛いほどだった。
江雪斎の部屋の前に立つと、
中から声がした。
「宗易殿。
入ってください」
私は襖を開けた。
江雪斎は机の前に座り、
墨を磨いていた。
その動きはゆっくりで、
まるで時間そのものを整えているようだった。
「宗易殿。
葛山十兵衛との対峙、
三島での戦い……
すべて聞きました」
「葛山は、私を狙っています」
「ええ。
そして、あなたを通して“背後の者”を揺さぶろうとしている」
江雪斎は筆を置き、
私をまっすぐに見た。
「宗易殿。
葛山の背後にいる者……
その名が、少し見えてきました」
私は息を呑んだ。
「誰です」
「徳川の家臣です。
だが、家康本人ではない」
「家康の名を使える家臣……」
「ええ。
家康の名を使い、
東国を揺らし、
北条を弱らせることを“正しい”と信じている者です」
江雪斎の声は静かだったが、
その奥には鋭い緊張があった。
「その者は、
“北条を揺らすことで徳川を強くする”
と考えている」
「名は……」
江雪斎は首を横に振った。
「まだ言えません。
確証がない。
だが──
その者は、あなたと必ず対峙します」
私は江雪斎の目を見た。
その目は、
これまでで一番深く、
そして一番孤独だった。
「宗易殿。
北条は、長く持ちません」
その言葉は、
静かに、しかし確実に胸に落ちた。
「だが、あなたはあなたの道を進みなさい。
その道の先に、“東の殿”がいる」
「家康……」
「ええ。
あなたは、いずれ家康と向き合うことになる。
その前に──
“影”を知れ。
家康の影を」
江雪斎は机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
墨で書かれた短い文。
──東国の荒れを利用し、北条を揺らせ。
私は息を呑んだ。
「これは……」
「葛山の背後にいる者の“手”です。
名は書かれていない。
だが、文の書きぶりは武家のもの。
しかも、ただの家臣ではない」
江雪斎は紙を私に渡した。
「宗易殿。
あなたは、この影を追わねばならぬ」
私は紙を握りしめた。
葛山十兵衛。
徳川の影。
そして、北条の崩れ。
すべてが、
この“名のない文”に繋がっている。
江雪斎が静かに言った。
「宗易殿。
これは前夜です。
嵐の前の、最後の静けさです」
私は深く頷いた。
──影は、影の名を追う。




