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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第34話 崩れの始まり

 箱根から戻った翌朝、小田原城の空気は異様だった。

 兵たちが走り回り、怒号が飛び交い、誰もが顔を強張らせている。


 私は城門をくぐった瞬間、ただならぬ気配を感じた。


「宗易殿!」


 大道寺政繁が駆け寄ってきた。

 普段は沈着な男が、明らかに焦っている。


「何があったのです」


「……箱根の兵が、敗走した」


 私は足を止めた。


「敗走……?」


「氏政様の命で“少数の兵”を箱根へ送っただろう。

 あれが、葛山の軍に蹴散らされた」


 政繁は歯を食いしばった。


「兵は悪くない。

 数が違いすぎた。

 葛山の軍は百ではない。

 数百だ」


 私は息を呑んだ。


 政繁は続けた。


「敗走した兵が戻ってきたが……

 その姿を見れば、誰でも悟る。

 北条は、葛山に押されていると」


 城内のざわめきが、

 その事実を物語っていた。


 政繁は私を連れて城の裏門へ向かった。

 そこには、泥と血にまみれた兵たちが座り込んでいた。


「……あれが、箱根の兵だ」


 兵の一人が私たちに気づき、立ち上がった。


「政繁様……申し訳ございません……

 我らは……」


「責めてはおらぬ」


 政繁は兵の肩に手を置いた。


「葛山の軍は、どれほどだった」


「黒い陣羽織が……

 山の斜面いっぱいに……

 まるで、黒い波のようで……」


 兵の声は震えていた。


「葛山は……

 “北条は動けぬ家だ”と……

 そう言っておりました……」


 私は胸の奥が冷えた。


 葛山は兵を倒すだけでなく、

 “言葉”で北条を揺らしている。


 政繁は低く言った。


「宗易殿。

 これが“崩れの始まり”だ」


 そのとき、城内から怒鳴り声が響いた。


「なぜ敗れたのだ!

 なぜだ!」


 氏政の声だった。


 政繁と私は広間へ向かった。


 広間では、氏政が敗走した兵を叱責していた。

 松田憲秀が横で腕を組み、冷たい目でそれを見ている。


「兵が弱いのではない!」


 政繁が声を上げた。


「兵の数が足りなかったのです!

 葛山の軍勢は、我らの想定を超えている!」


 氏政は政繁を睨んだ。


「ならば、なぜもっと早く報告せぬ!」


「報告はしました!

 しかし、氏政様は──」


「黙れ!」


 氏政の怒声が広間に響いた。


 憲秀が口を開いた。


「氏政様。

 これは……“判断の誤り”ではありませんか」


 広間の空気が凍りついた。


 氏政の顔が赤くなる。


「憲秀……貴様、何を言っている」


「私は事実を申し上げているだけです。

 北条は今、外にも内にも敵を抱えている。

 このままでは……」


 憲秀はわざと声を落とした。


「……北条は滅びます」


 政繁が憤然と立ち上がった。


「憲秀! 言葉を慎め!」


「慎むべきは、判断を誤る者でしょう」


 憲秀の視線は、氏政に向けられていた。


 氏政は拳を震わせた。


「……出ていけ」


「承知しました」


 憲秀は一礼し、広間を出ていった。

 その背中には、忠臣の影はなかった。


 政繁は深く息を吐いた。


「宗易殿……

 北条は、内部から崩れ始めています」


 私は広間を見渡した。


 怒りに震える氏政。

 沈黙する重臣たち。

 去っていく憲秀。

 そして、兵の敗走。


 葛山十兵衛が狙っているのは、

 北条の喉──箱根。


 だが、

 本当に危ういのは、

 北条の“心臓”──家中そのものだった。


 政繁が私に言った。


「宗易殿。

 あなたには、箱根へ戻っていただきたい。

 葛山の動きを、誰よりも早く掴むために」


 私は頷いた。


 ──葛山十兵衛。

 ──徳川の影。

 ──揺れ始めた北条家。


 崩れは、もう始まっている。


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