第33話 箱根山の対峙
箱根の山道は、昼でも薄暗かった。
霧が濃く、木々の影が揺れ、足元の石が湿っている。
風が吹くたび、枝が軋む音が響いた。
葛山十兵衛が指定した場所は、
箱根山中の古い石畳の道──
旅人がほとんど通らない、忘れられた峠道だった。
私は足を止めた。
霧の向こうに、人の気配がある。
息遣いでも、足音でもない。
ただ、そこに“いる”という確かな気配。
「来たか、宗易」
霧の中から声がした。
葛山十兵衛が姿を現した。
黒い陣羽織。
刀は鞘に収めたまま。
側近は連れていない。
ただ一人、霧の中に立っていた。
その姿は、戦場の頭領というより、
獣のような静けさをまとっていた。
「呼ばれたのでな」
私が言うと、葛山は口元をわずかに歪めた。
「お前は逃げぬと思っていた」
「逃げる理由がない」
「そうだろうな」
葛山はゆっくりと歩き、
私との距離を十歩ほどに保った。
霧が二人の間を流れる。
「宗易。
お前は、俺の動きをよく読んでいる」
「お前も、私の動きを読んでいる」
「だから呼んだ」
葛山は立ち止まり、
こちらをまっすぐに見た。
「宗易。
俺と来い」
私は眉をひそめた。
「……何を言っている」
「東国は変わる。
北条は崩れる。
徳川が伸びる。
その流れを作るのは、俺たちだ」
「“俺たち”?」
「そうだ」
葛山は一歩近づいた。
「お前の“目”は使える。
俺の“腕”と合わせれば、
東国を動かせる」
「お前の背後にいる者が、東国を乱している」
「乱す?
違う。
整えているのだ」
葛山の声は静かだった。
狂気はない。
ただ、確信だけがある。
「宗易。
お前は何を見ている」
「お前の背後だ」
葛山の目が細くなる。
「徳川の家臣……か」
「そうだ」
「名は知っているか」
「まだだ」
「ならば、教えてやろうか?」
葛山は笑った。
「……と言いたいところだが、
俺にも“まだ”教えられていない」
私は息を呑んだ。
葛山ほどの男でも、
黒幕の名を知らない。
つまり──
黒幕は、葛山を“使っている”だけだ。
「宗易」
葛山が刀の柄に手をかけた。
「お前は俺の敵だ。
だが、殺すのは今ではない」
「理由は」
「お前の目が、まだ“使える”からだ」
葛山は刀を抜かず、
ただ柄を軽く叩いた。
「次に会う時は、命を取りに行く。
覚悟しておけ」
そう言うと、葛山は背を向けた。
霧の中へ消えていく。
足音はしない。
ただ、霧が揺れ、静寂が戻る。
私はその背中を見送りながら、
葛山の“本当の危険”を理解した。
──葛山は狂っていない。
──葛山は“信じている”。
──背後の黒幕を。
そして、
その黒幕は葛山を“捨て駒”として使っている。
私は霧の中に立ち尽くし、
静かに息を吐いた。
葛山十兵衛。
次に会う時、
どちらかが死ぬ。
その言葉は、
脅しではなく、
宣告だった。
私は刀の柄に触れ、
箱根の冷たい風を受けながら歩き出した。
──影は、影の奥へ踏み込む。




