第32話 葛山の挑発
三島から戻った私は、すぐに大道寺政繁の屋敷へ向かった。
村が焼かれたこと、葛山が私の名を出していたこと──
すべてを伝える必要があった。
政繁は地図を広げたまま、私の話を黙って聞いていた。
表情は動かない。だが、指先がわずかに震えていた。
「……宗易殿。
葛山は、あなたを“戦の軸”に据えようとしている」
「私を、ですか」
「ええ。
北条を揺らすためではない。
あなたを揺らすために村を焼いた」
政繁は地図を指で叩いた。
「葛山は、あなたが箱根へ向かうと読んでいる。
読んだ上で、先に動いている」
そのとき、屋敷の外から兵の声がした。
「政繁様! 急ぎの文です!」
若い兵が駆け込み、政繁に文を差し出した。
封は黒い紐で結ばれている。
見覚えのある結び方だった。
政繁が眉をひそめる。
「……葛山十兵衛の結びだ」
政繁は文を開き、目を細めた。
「宗易殿。
あなた宛てです」
私は文を受け取り、広げた。
墨の色は濃く、筆圧が強い。
葛山十兵衛の筆跡だった。
──三日後、箱根山中にて待つ。
──来なければ、また村が燃える。
──宗易へ。
私は文を握りしめた。
政繁が低く言った。
「罠だ。
行けば、葛山の思うつぼだ」
そのとき、屋敷の奥から足音がした。
「罠でも、行かねばならぬ時がある」
板部岡江雪斎が現れた。
白い衣に身を包み、静かな目でこちらを見ている。
「江雪斎様……」
政繁が驚いた声を出す。
江雪斎は私の手にある文を見て、言った。
「葛山は宗易殿を“敵として認めた”。
敵が認めた者が動かねば、戦は動きません」
政繁が反論する。
「宗易殿を危険に晒す気ですか」
「危険に晒されているのは北条家そのものです」
政繁は言葉を失った。
江雪斎は私に向き直る。
「宗易殿。
葛山はあなたを試している。
あなたがどこまで踏み込めるか。
どこまで読めるか。
どこまで“影”として動けるか」
私は文を見つめた。
──来なければ、また村が燃える。
葛山は脅しているのではない。
“行動を強制している”のだ。
「宗易殿」
江雪斎の声が静かに響く。
「あなたは、北条の家臣ではない。
だが、北条のために動いている。
それは、あなた自身の選択です」
政繁が言う。
「だが、葛山の罠に飛び込む必要はない!」
「罠に飛び込むのではない」
私は政繁を見た。
「葛山の“狙い”を掴みに行くのです」
政繁は息を呑んだ。
「宗易殿……」
「葛山は私を読んでいる。
ならば、その読みを逆手に取る」
江雪斎が微かに笑った。
「宗易殿。
あなたは“影”としての覚悟ができている」
政繁は拳を握りしめた。
「……わかった。
だが、必ず戻ってきてください」
私は頷いた。
屋敷を出ると、冬の風が頬を刺した。
空は曇り、箱根の山々が遠くに黒く沈んでいる。
葛山十兵衛。
お前は私を誘っている。
私が来ると確信している。
ならば──
行く。
ただし、
“誘われたまま”では行かない。
私は文を懐にしまい、
箱根へ向かう道を歩き出した。
霧が濃くなり、
風が冷たく吹き抜ける。
葛山十兵衛。
お前の狙いが何であれ、
私はそれを暴く。
──影は、影の罠へ踏み込む。




