第3話 比叡の影
小栗栖の集落を離れ、私はさらに山奥へと足を進めた。
夜は深まり、霧は濃く、世界は白と黒の曖昧な境界に沈んでいく。
惟任日向守としての死を偽装したとはいえ、追手はまだ諦めぬ。
むしろ、私が生きている可能性を確信しているかのように、足音は執拗に迫っていた。
足元の土は湿り、踏みしめるたびに鈍い音を立てる。
その音が、やけに大きく響いた。
疲労が全身にまとわりつき、肩で息をするたび、胸が焼けるように痛む。
気づけば、左腕に浅い切り傷があった。
戦場で受けたものか、逃亡の途中で枝に引っかけたものか、もはや覚えていない。
──生き延びねばならぬ。
その思いだけが、私を前へ押し出していた。
名を捨てた以上、私はもう光秀ではない。
だが、死ぬわけにもいかぬ。
この国の行く末を見届けるまでは。
山道を進むうち、木々の間から巨大な影が姿を現した。
比叡山──京を見下ろす霊峰。
その黒々とした輪郭は、夜空に溶け込みながらも、確かな存在感を放っていた。
私は思わず足を止めた。
比叡山は、私にとって忘れ難い場所だ。
延暦寺焼き討ちの記憶が、胸の奥で疼く。
あのとき私は、何を守り、何を壊したのか。
理想の名の下に、どれほどの罪を積み重ねたのか。
霧の向こうで、僧の読経のような低い響きが聞こえた気がした。
風の音か、それとも私の記憶が作り出した幻か。
だが、その響きは妙に心を落ち着かせた。
──僧として生きる道もあるのか。
そんな考えが胸をかすめた。
名を捨て、影として生きる者にふさわしい道。
黒衣をまとい、俗世から離れ、己の罪と向き合う生き方。
だが、今はまだその時ではない。
追手の足音が、現実へと引き戻した。
犬の吠え声が再び響いた。
先ほどよりも近い。
敵は、私の痕跡を確実に辿っている。
私は山道を外れ、急斜面を滑り降りた。
土が崩れ、石が転がり落ちる。
その音が、夜の静寂を破った。
──しまった。
犬の吠え声が鋭く跳ね上がった。
敵がこちらへ向きを変えたのがわかる。
私は息を切らしながら、倒木の影に身を潜めた。
背中に冷たい土が触れ、汗が一気に冷える。
松明の光が斜面を照らし、揺れながら近づいてくる。
足音が重く、確実に迫っていた。
「光秀は必ず生きておる。逃がすな」
その声に、胸の奥が冷たくなった。
彼らにとって私は“首”でしかない。
だが、私にとっては──
──まだ終われぬ。
私は倒木の影から這い出し、さらに山奥へと逃げ込んだ。
足元の土が滑り、何度も転びそうになる。
だが、立ち止まれば終わりだ。
霧が濃くなり、視界が白く霞む。
その中に、黒い影が揺れた。
人影ではない。
もっと深く、もっと静かな影。
比叡山の闇が、私を包み込むように広がっていた。
──黒衣の影。
その言葉が、再び胸に浮かんだ。
僧の衣のような深い黒。
それは、私がこれから歩む道を象徴しているかのようだった。
名を捨てた者が辿り着く先。
影として生きる者の行き着く場所。
私はその影の方へ歩き出した。
惟任日向守としての死を背負い、
まだ見ぬ“もう一つの名”へ向かって。
夜は深く、闇は濃い。
だが、その闇の奥に、微かな光があるように思えた。




