第25話 江雪斎の疑念
裏門の戦いから一夜が明けた。
小田原城下はまだ煙の匂いが残り、兵たちは慌ただしく動いている。
私は大道寺政繁の屋敷で傷の手当てを受けていた。
喉の痛みはまだ残っているが、動けないほどではない。
政繁が言った。
「宗易殿。
江雪斎様がお呼びです」
私は驚いた。
板部岡江雪斎──
北条家の“頭脳”と呼ばれる男。
氏政の側近であり、家中の政治を支える人物だ。
「……私を?」
「ええ。
昨夜の戦いの報告を聞き、
あなたと話したいと」
私は政繁に礼を言い、江雪斎の屋敷へ向かった。
屋敷は静かだった。
戦の気配が漂う城下とは対照的に、
庭の松が風に揺れ、鳥の声が聞こえる。
部屋に通されると、
江雪斎は畳の上に座り、書状を読んでいた。
年齢は五十を過ぎているはずだが、
背筋は伸び、目は鋭い。
「宗易殿。
よく来てくれました」
江雪斎は書状を置き、私を見た。
「昨夜の働き、政繁から聞きました。
北門の陽動を見抜き、裏門へ走ったとか」
「偶然です。
ただ、敵の動きが不自然だったので」
「偶然で、あれはできませんよ」
江雪斎は微笑んだ。
だが、その目は笑っていない。
「宗易殿。
あなたは“戦場の目”を持っている」
私は黙った。
「北条家の兵でさえ、
あの状況で裏門を見抜ける者は少ない。
あなたは、何者です」
ついに来た。
江雪斎は核心に触れに来ている。
私は答えた。
「名を捨てた者です。
それ以上でも、それ以下でもありません」
「名を捨てた者……ですか」
江雪斎は私をじっと見つめた。
「宗易殿。
あなたの目は、
“戦を知る者”の目だ。
ただの旅人ではない」
私は視線をそらさなかった。
「戦を知る者は、
戦を避ける術も知っています。
昨夜は、避けられぬ戦でした」
「ふむ……」
江雪斎は湯を一口飲み、
静かに続けた。
「宗易殿。
私はあなたを疑っているわけではありません。
むしろ──
“味方にしたい”と思っている」
私は驚いた。
「あなたの判断力、
敵の動きを読む力、
そして、あの落ち着き。
北条家には、そういう者が必要です」
江雪斎は書状を一枚取り出し、私に渡した。
「これは、葛山十兵衛の潜伏地を記した地図です。
政繁と私が調べたものですが、
決定的な証拠がない。
あなたの“目”で確かめてほしい」
私は地図を広げた。
三島。
葛山が向かったとされる場所。
「葛山十兵衛を追えば、
その背後にいる者の正体が見えるでしょう」
江雪斎は声を低くした。
「宗易殿。
葛山の背後には“徳川の影”がある。
だが、北条家はそれを公にできない。
あなたのような“名を持たぬ者”が必要なのです」
私は地図を畳み、静かに言った。
「……わかりました。
葛山十兵衛を追います」
江雪斎は深く頷いた。
「宗易殿。
あなたは北条の家臣ではない。
だが、私はあなたを信じる」
その言葉は、
戦場の誉れよりも重かった。
屋敷を出ると、
冬の風が頬を刺した。
葛山十兵衛。
北条を恨み、
東国を荒らし、
そして──
“徳川の影”と繋がる男。
私は地図を握りしめた。
──影は、さらに深い影へ踏み込む。




