第22話 葛山十兵衛
黒い陣羽織の布切れを懐にしまい、
私は大道寺政繁の屋敷を出た。
夜の小田原は静かだが、
その静けさの奥に、張り詰めた緊張が漂っている。
──敵の“頭”を知らねばならない。
黒い陣羽織の組織を動かす者。
その男の名を掴まねば、
北条も、東国も、そして私自身も危うい。
私は城下の外れにある古い兵舎へ向かった。
北条家の古参兵が集まる場所だ。
彼らは戦の匂いを知り、
浪人や裏切り者の噂にも敏い。
兵舎の前で、
白髪混じりの古参兵が煙管をふかしていた。
「宗易殿か。
政繁様から聞いている。
“黒い陣羽織の頭領”を知りたいそうだな」
「心当たりがあるのですか」
古参兵は煙を吐き、
夜空を見上げた。
「……葛山十兵衛だ」
その名は、
夜の空気を切り裂くように響いた。
「葛山……?」
「北条の足軽大将だった男だ。
腕は立つ。
だが、気性が荒く、
味方の兵を斬ったこともある」
私は息を呑んだ。
「処罰されたのですか」
「いや。
処罰される前に逃げた。
“北条に裏切られた”と叫びながらな」
古参兵は煙管を置き、
低い声で続けた。
「葛山は、北条を恨んでいる。
だが、それだけであれほどの組織を作れるはずがない。
誰かが後ろで糸を引いている」
私は黙って聞いた。
「葛山は、戦の匂いを嗅ぎ分ける男だ。
荒れた東国を見て、
“今なら動ける”と考えたのだろう」
「葛山は今どこに」
「三島だ。
あそこは東国の要。
北条にも徳川にも近い。
葛山のような男が動くには、都合がいい」
私は深く頷いた。
「……ありがとうございます」
古参兵は私を見つめた。
「宗易殿。
葛山はただの裏切り者ではない。
あの男は、戦を知りすぎている。
そして──
“誰かのために動く”ことを厭わぬ男だ」
「誰か……?」
「名は知らん。
だが、葛山が動くときは、
必ず“背後に影がある”」
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
葛山十兵衛。
北条を恨み、
浪人を束ね、
東国の荒れを利用し、
そして──
“誰かのために動いている”。
その“誰か”が誰なのか。
それを掴むことが、
私の次の役目だ。
兵舎を出ると、
夜風が冷たく頬を撫でた。
私は歩きながら、
葛山の姿を思い浮かべた。
廃寺で見た、あの鋭い目。
迷いのない動き。
兵を動かす声。
あれは、ただの浪人の目ではない。
──戦を知る者の目だ。
そのとき、背後から声がした。
「宗易殿」
振り返ると、大道寺政繁が立っていた。
「葛山十兵衛の名を聞いたようですね」
「はい。
北条の元足軽大将だと」
「ええ。
だが、葛山は“ただの裏切り者”ではありません」
政繁は私の前に立ち、
低く言った。
「葛山は、
“徳川の者と通じていた”という噂がある」
私は息を呑んだ。
「徳川……?」
「名はわからぬ。
だが、葛山が逃亡した直後、
徳川方の密偵が三島で動いていた」
政繁は続けた。
「宗易殿。
葛山を追えば、
その背後にいる“黒幕”が見えるでしょう」
私は静かに頷いた。
「葛山十兵衛を追います」
政繁は深く頷いた。
「宗易殿。
どうか気をつけて。
葛山は、あなたの命を狙うでしょう」
私は夜の小田原を歩き出した。
葛山十兵衛。
北条を恨み、
東国を荒らし、
そして──
“徳川の影”と繋がる男。
その名を胸に刻み、
私は三島へ向かう決意を固めた。
──影は、敵の名を知った。




