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黒衣の孤影  作者: 双鶴


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第2話 小栗栖の闇

 竹林を抜けると、湿った夜気が肌にまとわりついた。

 山崎の戦場から離れたはずなのに、血の匂いはまだ鼻の奥に残っている。

 惟任日向守としての死を偽装したとはいえ、追手が消えるわけではない。

 むしろ、これからが本当の逃亡だ。


 私は深く息を吸い、闇に沈む山道を進んだ。

 足元の土は柔らかく、踏みしめるたびに湿った音がする。

 その音が、やけに大きく響いた。

 まるで、私の居場所を敵に告げているかのようだ。


 ──生き延びねばならぬ。


 その思いが胸の奥で静かに燃えていた。

 名を捨てた以上、私はもう光秀ではない。

 だが、死ぬわけにもいかぬ。

 この国の行く末を見届けるまでは。


 遠くで犬の吠え声がした。

 先ほどよりも近い。

 追跡犬だ。

 敵は、私がまだ生きている可能性を捨てていない。


 私は竹の影に身を寄せ、耳を澄ませた。

 風が竹を揺らし、葉が擦れ合う音がする。

 その奥に、複数の足音が混じっていた。

 湿った地面を踏みしめる重い音。

 甲冑が触れ合う金属音。

 松明の火が揺れ、橙色の光が闇を裂く。


 ──まだ追ってくるか。


 私は息を潜め、闇に溶け込むように身を低くした。

 心臓の鼓動が、竹林の静寂に響くほど大きく感じられる。

 このままでは、すぐにでも見つかる。


 だが、逃げ続けるだけでは終わらぬ。

 私は惟任日向守としての死を演出した。

 ならば、次に必要なのは“生きるための名”だ。


 ──名を捨てた者は、何者として生きるのか。


 その問いが、胸の奥で静かに形を成しつつあった。


 山道を進むうち、木々の間から小さな集落の影が見えた。

 小栗栖──敗走した武将が最後に辿り着く場所として、あまりに有名な地名だ。

 だが、今の私には皮肉を味わう余裕すらない。


 集落の入口に差しかかったとき、足元の石が転がり、乾いた音を立てた。

 その瞬間、犬の吠え声が鋭く跳ね上がった。

 敵がこちらへ向きを変えたのがわかる。


 ──まずい。


 私は集落の裏手へ回り込み、古い納屋の影に身を潜めた。

 木壁は朽ちかけ、隙間から冷たい風が吹き込む。

 だが、隠れるには十分だった。


 足音が近づく。

 松明の光が壁の隙間から差し込み、揺れながら私の足元を照らした。

 息を止め、身を固くする。

 敵の声が聞こえた。


「光秀はまだ生きておる。首が上がらねば、我らの首が飛ぶぞ」


 その言葉に、胸の奥が冷たくなった。

 彼らにとって私は“首”でしかない。

 だが、私にとっては──


 ──まだ終われぬ。


 足音が遠ざかるのを確認し、私は納屋を抜け出した。

 小栗栖の集落を離れ、さらに山奥へ向かう。

 夜は深まり、霧が濃くなっていく。

 世界の輪郭が曖昧になり、私自身の存在も薄れていくようだった。


 そのとき、ふと視界の端に黒い影が揺れた。

 人影ではない。

 もっと静かで、もっと深い──闇そのもののような影。


 私は足を止めた。

 影は風に揺れ、まるで私を誘うように山の奥へと伸びていた。


 ──黒衣の影。


 その言葉が、なぜか胸に浮かんだ。

 僧の衣のような、深い黒。

 それは、私がこれから歩む道を象徴しているかのようだった。


 名を捨てた者が辿り着く先。

 影として生きる者の行き着く場所。


 私はその影の方へ歩き出した。

 惟任日向守としての死を背負い、

 まだ見ぬ“もう一つの名”へ向かって。


 夜は深く、闇は濃い。

 だが、その闇の奥に、微かな光があるように思えた。


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