第17話 城下の刃
小田原の城下に近づくにつれ、空気が変わった。
潮の匂いに混じって、鉄と血の匂いがする。
戦の前触れではない。
もっと生々しい、街そのものが緊張している匂いだ。
城下の道は人で溢れていた。
商人、農民、浪人、北条の足軽──
だが、誰もが落ち着かず、視線を泳がせている。
私は宗易として歩きながら、その異様な空気を肌で感じていた。
──何かが起きている。
そのとき、怒号が響いた。
「離せ! 俺は間者じゃねえ!」
人だかりができている。
北条の兵が一人の男を押さえつけていた。
男は血まみれで、必死に叫んでいる。
「俺はただ、東の村から逃げてきただけだ!
襲われたんだよ、あんたらの知らねえ連中に!」
兵の一人が男の胸倉を掴んだ。
「その“連中”の名を言え!」
「知らねえ!
ただ……ただ、黒い陣羽織を着た奴がいた!」
周囲がざわめいた。
黒い陣羽織──
北条でも、織田でも、羽柴でもない。
私は胸の奥がざわつくのを感じた。
兵が刀の柄に手をかけた瞬間、
別の声が割って入った。
「やめよ」
人垣が割れ、一人の男が現れた。
年の頃は四十前後。
北条の家臣にしては質素だが、
その目は鋭く、周囲の空気を一瞬で支配した。
兵たちが慌てて頭を下げる。
「……大道寺様」
大道寺政繁。
北条家中でも屈指の実務家であり、
小田原の城下を実質的に仕切る男。
大道寺は倒れた男を見下ろし、静かに言った。
「黒い陣羽織……どこで見た」
「ひ、東の村です……
火をつけて、食い物を奪って……
“次は小田原だ”って……」
大道寺の目がわずかに細くなった。
「宗易殿」
私は驚いた。
名を呼ばれるとは思わなかった。
「あなたも聞いたでしょう。
城下に入る前に、話を伺いたい」
私は頷いた。
大道寺は兵に命じ、男を医者へ運ばせた。
そして私を城下の外れにある小さな屋敷へ案内した。
部屋に入ると、大道寺は無駄な前置きもなく言った。
「宗易殿。
あなたは“東の火”を見たと聞きました」
私は短く答えた。
「見ました」
「では、単刀直入に聞きます。
あれは偶然の火事ではない。
そうでしょう」
私は頷いた。
「火をつけた者たちは、
ただの盗賊ではありませんでした」
「やはりな」
大道寺は腕を組んだ。
「黒い陣羽織──
北条でも、他の大名でもない。
だが、組織されている。
動きに迷いがない」
私は言った。
「“声”ではなく、“指揮”がありました」
大道寺は私を見た。
「宗易殿。
あなたは何者です」
私は答えなかった。
だが、大道寺はそれ以上追及しなかった。
「よい。
名よりも、見たものの方が重要だ」
大道寺は地図を広げた。
「黒い陣羽織の連中は、
このあたりの村を次々に襲っている。
だが、目的が読めぬ。
略奪にしては動きが統一されすぎている」
私は地図を見つめた。
襲われた村は、
すべて“ある一点”に向かって線を描いていた。
「……ここだ」
大道寺が息を呑んだ。
「宗易殿。
あなたもそう思いますか」
「ええ。
彼らは小田原を狙っているのではない。
小田原の“外”にいる誰かのために動いている」
大道寺は地図を折り、静かに言った。
「宗易殿。
あなたに頼みたいことがある」
私は目を上げた。
「黒い陣羽織の連中の“頭”を探ってほしい。
北条の兵では動けぬ場所がある。
だが、あなたなら行ける」
私はしばらく黙っていた。
宗易として歩き始めてから、
私は“見届ける”だけだった。
だが、ここで初めて──
**“動く”ことを求められている。**
「……わかりました」
大道寺は深く頷いた。
「宗易殿。
あなたは、ただの旅人ではない。
その目は、戦場の目だ」
私は立ち上がった。
「黒い陣羽織の“頭”を探ります」
大道寺は言った。
「宗易殿。
どうか、生きて戻ってください」
私は屋敷を出た。
小田原の空は重く、
遠くで雷のような音が響いていた。
──影は、ここから“敵”を持つ。




