第15話 日の中の影
東へ向かう道を歩いていると、空気が急に乾いた。
風が熱を帯び、草の匂いが焦げたように変わる。
その変化は、天候のせいではない。
──火だ。
私は歩みを速めた。
遠くの空が、わずかに赤く染まっている。
煙が細く立ち上り、風に流されている。
男が言った“火”が、ついに起きたのだ。
やがて、村の外れにたどり着いた。
そこには、炎に包まれた家屋があった。
屋根が崩れ、柱が火を噛み、黒い煙が空へ昇っていく。
だが、ただの火事ではない。
炎の向こうに、武装した影が動いていた。
──襲撃だ。
私は身を低くし、焼けた土の匂いを吸い込んだ。
村人の叫び声が聞こえる。
だが、武士の怒号はない。
これは軍勢ではない。
もっと粗雑で、もっと危うい“荒れ”だ。
そのとき、背後から声がした。
「宗易殿」
振り返ると、寺で会った黒衣の男が立っていた。
炎の光を受け、影が長く伸びている。
「来てくださったのですね」
「……これは、お前たちの仕業か」
「いいえ。
だが、この火は“起こるべくして起きた火”です」
男は炎を見つめながら言った。
「東国は今、荒れています。
戦の余波で家を失った者、主を失った者、
飢えた者、怒りを抱えた者……
そうした者たちが群れをなし、村を襲う」
「それを、見過ごせと言うのか」
「いいえ。
“見届けよ”と申し上げたはずです」
私は拳を握った。
「見届けるだけで、何が変わる」
「宗易殿。
あなたはまだ“影”の意味を誤解している」
男は炎の前に立ち、静かに言った。
「影は、光の代わりに戦うものではない。
光が乱れぬよう、
“どこに乱れが生まれているか”を見極める者です」
私は言葉を失った。
炎の向こうで、村人が逃げ惑っている。
武装した男たちが家を壊し、食糧を奪っている。
助けを求める声が響く。
──助けたい。
だが、宗易としての私は、
光秀としてのように剣を振るうことはできない。
その葛藤を見透かしたように、男は言った。
「宗易殿。
あなたが助けるべきは“人”ではありません」
「……何を言っている」
「助けるべきは“未来”です」
炎の音が、風に揺れた。
「この火は、東国の荒れの象徴。
だが、この火を鎮める力を持つ者がいる。
その者が、あなたを必要としている」
「家康か」
男は微笑んだ。
「名を口にする必要はありません。
ただ──その御方は、
“影として生きる者”を求めている」
私は炎を見つめた。
燃え落ちる家屋、逃げ惑う村人、
そして、荒れた者たちの狂気。
この火は、ただの災いではない。
歴史のうねりの前触れだ。
男は続けた。
「宗易殿。
あなたがこの火をどう見るか。
それが、あなたの“次の名”を決めるでしょう」
私は静かに息を吸った。
──次の名。
惟任日向守としての死を背負い、
光秀としての名を捨て、
宗易として歩き始めた今、
私はまだ“何者でもない”。
だが、この火の前で、
私は初めて“影としての自分”を自覚した。
「……私は、この火を見届ける」
男は深く頷いた。
「それで十分です。
影は、最初の一歩を踏み出すだけでよい」
炎が大きく揺れ、夜のような赤い光が辺りを染めた。
私はその光の中に立ち、
宗易としての最初の決断を胸に刻んだ。
──影は、ここから始まる。




